彦鶴姫・藤の方・陽泰院~内助の功だけでなく国母様と慕われた鍋島直茂の正室

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石井彦鶴姫は、1541年に肥前・飯盛城主である石井常延(石井兵部少輔常延)の次女として生まれました。
最初は彦鶴(ひこづる)と呼ばれており、のち藤(ふじ)と名乗り、藤の方・北の方・御簾中など色々な呼び方があります。
母は生母は九州千葉家の庶流である黒尾氏の娘・黒尾夫人(蓮華院日長尼)です。
兄・石井常忠は龍造寺隆信の馬廻衆であり、勇将として知られます。
また、弟には龍造寺政家の家老となった石井賢次がいます。

父・石井常延は佐賀城主である龍造寺隆信の家老を務めており、1530年、田手畷の戦いでは鍋島清久・鍋島清房らと共に出陣し活躍しました。

彦鶴(ひこつる)は、最初、納富信澄に嫁いでいます。
この納富信澄も龍造寺家を支える家老でしたが、1566年に夫・納富信澄は討死してしまいました。
そのため、納富信澄との間に儲けた娘・慈光院を連れて実家の石井家に戻っています。

ある日、日野江城主・有馬晴純との合戦に勝利した龍造寺隆信が、鍋島直茂らと佐賀城へ帰還する途中、飯盛城に立ち寄って昼食をとったと言います。
この時、飯盛城主・石井常延は、焼いた鰯(イワシ)を提供することにしましたが、龍造寺家の武将の人数が多すぎて、なかなか大量のいわしを焼けず、台所では侍女たちが苦労していたとされます。

そんな時に彦鶴が現れると「手際が悪い」と女中たちを叱責し、釜戸の火と炭を持ち出して、石井彦鶴姫が自ら庭先に広げると、その上に鰯(いわし)を並べて、大量に焼き上げたと伝わります。
大量のイワシは炭まみれになりましたが「ザル」にのせて炭をふるい落し、アツアツの鰯を一気に膳に並べたそうです。

この機転がきき、また機敏な動きに感嘆した鍋島直茂は「あのように機転の利く妻を持ちたい」と思い、彦鶴姫に求婚したという逸話が佐賀藩に伝わる武士道書「葉隠」に記載されています。

その後、鍋島直茂は石井家屋敷に熱心に通い、屋敷に忍び込んでは、石井彦鶴と会っていたとされます。
しかし、事情を知らない石井家の家臣は、不審者が何度も忍び込んでいるのに気づき、警戒するようになりました。
そして、泥棒と間違われた鍋島直茂は、追いかけまわされると屋敷を飛び出し、塀を乗り越えて濠を飛び越えたところ、石井家の家臣に斬りつけられたため、鍋島直茂は足の裏に傷を負い、生涯その傷跡は残ったそうです。

そんな中、1569年、鍋島直茂は32歳、彦鶴は29歳の時に結婚したのですが、鍋島直茂も初婚ではなく、既に高木胤秀(高木肥前守胤秀)の娘・慶円という前室がいました。
その間には長女・伊勢龍姫も生まれていましたが、慶円をわざわざ離縁してまでの再婚となりました。
なお、この重臣らの縁組には主君・龍造寺隆信も大変喜んだとされており、結婚後、鍋島直茂はめきめきと頭角を現しました。


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こうして彦鶴姫は、次女・千鶴姫(家老・多久安順の室)、三女・彦菊姫(家老・諫早直孝の継室)、長男・鍋島勝茂(初代・佐賀藩主)、次男・鍋島忠茂(鹿島藩主)を儲けますが、前妻の慶円からは「後妻討ち」を受けたと言います。

これは、この時代の日本にあった独特な風習で「うわなりうち」とも言いますが、夫に離縁された女性は、その夫が後妻を娶ると、仲間を集めて後妻を襲撃し喧嘩をするという蛮習となります。
しかし、不意打ちをすると言う事では無く、果たし状のように事前に「予告」をするしきたりでした。
そして、慶円は仲間を引き連れて藤の方(彦鶴姫)のところにやってきてみたら、藤の方(彦鶴姫)は応戦するどころか冷静に対応し、慶円らは丁重に出迎えたと言う事です。
このように彦鶴姫は、気丈夫で聡明、かつ慈悲深い性格であったとされ、慶円を穏やかな態度で迎えると、茶菓子などを出して丁寧にもてなし、思わぬ接待を受けた慶円も、その後、彦鶴姫には穏やかな態度で接したと伝わります。

なお、前夫・納富信澄との間に儲けた娘は、成長すると鍋島直茂の養女として太田茂連に嫁つぎました。

1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死する大敗を喫すると、鍋島家だけでなく、実家の石井家も多数を戦死者を出しました。
この時、留守中の家臣が敗戦の報を聞いて動揺すると、彦鶴(藤の方)は「鍋島直茂の妻」として家臣らにお悔やみの書状を送り、家臣団の結束を動揺を抑えたとされます。

豊臣秀吉は朝鮮攻めの際に、名護屋城に大名の妻子を招いて慰労していましたが、豊臣秀吉の好色ぶりは知れていた為、彦鶴(藤の方)は丁重に断ったと言います。
しかし「前例になると困る」と豊臣家側の意向が伝わると、わざと醜くなるように額を角に切り込む髪形と、醜い化粧をして拝謁したという逸話もありますが、この頃の彦鶴(藤の方)は50歳前後ですので、真偽のほどは不明と言えるでしょう。

寒い冬の夜に、鍋島直茂と彦鶴姫が暖をとっていましたが、この日は火鉢にあたっていても、とても寒く、領民はどうしているだろうか?などと言う話題になったと言います。
その時、牢屋にいる罪人も、とても寒い思いをしているだろうと考えた2人は、家来を呼んで、今いる罪人の数を至急調べさせたと言います。
その人数の報告を受けると今度は台所に命じて「その人数分の粥(かゆ)」を至急こしらえさせ、粥ができたと聞くと「冷めないうちに牢屋に粥を運んで、罪人たちにふるまえ」と命じたとされています。
そのため、罪人らは暖かい粥だけでなく、夫妻の暖かい心にも触れ、涙を流しながら粥を食べたと伝わります。

ある家臣が食べる米も無くなってしまい、城にコメを運ぶ百姓を斬るとお脅すと言う事件が起こります。
みの家臣はすぐに捕まり、死罪が決定すると藩主・鍋島勝茂は、その家臣が父・鍋島直茂の忠臣でもあったことから、鍋島直茂と彦鶴夫妻にその旨を報告しました。
この時、鍋島直茂は涙を流して「奥よ、あの者が殺されるそうな。なんとも不憫ではないか。
我ら夫婦が“殿様、殿様”と崇められ、今の我々があるのも、かの者たちが命を惜しまず懸命に働いてくれたからだ。
そのような者を、1日の米にも困らせてしまうなど、我らの不徳ではないか?、かの者を殺したのはこの私と言えよう」と、夫妻で泣き崩れたと言います。
これに驚いた鍋島勝茂は、死刑を取りやめて減刑したと言い、夫妻は「勝茂殿、よく我らの気持を察してくれた」と深々と頭を下げて礼を述べたそうです。

鍋島直茂が1618年に死去すると、落飾して陽泰院と称しました。
内助の功だけでなく、家臣や領民の事も常に思いやっていたことから、庶民からは「国母様」と慕われたと言います。

1629年1月8日、陽泰院(ようたいいん)が死去。享年89。
鍋島家の菩提寺・高伝寺にの鍋島直茂の墓石に寄り添うように、墓が設けられました。

鍋島直茂の墓(鍋島直茂・陽泰院夫妻の墓)

陽泰院の墓石は、かつて夫・鍋島直茂が朝鮮攻めをした際に、陣中で一夜の枕にした石を持ち帰っていたものとなります。
これも珍しいことで、通常、正室と言えども、夫と同じ墓になることはありませんので、この2人が非常に仲が良かったことを物語っています。

龍造寺隆信が筑後の田尻鑑種と敵対したときには、人質として預かっていた幼い田尻善右衛門を龍造寺隆信が処刑しようとします。
この時、刑場に連れていかれた田尻善右衛門を不憫に思った陽泰院は、助命を強く龍造寺隆信に嘆願し、陽泰院の頼みとあって、陽泰院が預することになりました。
成長した田尻善右衛門は佐賀藩士となりましたが、陽泰院が逝去した際に「この命はそもそも奥方様に助けられた命」と言い、陽泰院を追って殉死したと言います。
女性4名、男性4名と合計8名もの家臣が殉死しましたが、奥方に殉死する人数にしては非常に稀な大人数ですので、ここでも陽泰院の人柄が分かります。

優秀な武将の陰には、常に有能な女性がいます。
鍋島直茂も、こんな奥様がいたからこそ、大いに活躍できたのではないでしょうか?

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