猪俣邦憲の名胡桃城奪取

猪俣邦憲(いのまた-くにのり)は鉢形城主・北条氏邦に仕えた江戸衆・富永家の一族とされ、初名は富永助盛(とみなが-すけもり、富永能登守助盛)と名乗っていた。

1581年前後に、猪俣家の養子に入ったようで、猪俣範直と称し、北条氏政の弟・北条氏邦に仕えた。

北条氏国の上野侵攻に際しては先鋒として活躍し、箕輪城代や沼田城代を任されている。
のちに北条氏邦から偏諱を受けて、猪俣邦憲と改名したと考えられる。

1589年、豊臣秀吉の仲介にて、北条家は、真田昌幸の沼田城を譲られて、ようやく念願とも言える上野を制したかに見えた。
しかし、沼田城から目と鼻の先である名胡桃城は依然と真田昌幸が支配しており、完全に上野が北条家の物になった訳では無く、名胡桃城は大変目障りな存在となる。


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そんな中、真田昌幸の家臣・鈴木重則(鈴木主水)が守る名胡桃城に対し、猪俣邦憲は策略を用いたとされる。
鈴木家の家老・中山九郎兵衛を買収すると、真田昌幸からだと言う偽手紙を送り、鈴木重則を岩櫃城へと誘き出した。
その間に、中山九郎兵衛が名胡桃城を乗っ取り、北条家が名胡桃城を策略により奪取した。

名胡桃城

なお、鈴木重則(鈴木主水)は責任を感じて自刃している。

これに対して、豊臣秀吉は惣無事令に違反しているとして、1590年、小田原攻めを開始する。

猪俣邦憲は小田原城が落城したあと、豊臣家の厳しい探索によって捕捉され磔に処されたとも、弟・富永勘解由左衛門(福岡城主・富永善左衛門)と共に前田利家に仕えたともされている。

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