
実因僧都とは
本項の主人公である実因(じついん)は、天慶8年(945年)に橘敏貞の子として生まれました。母の名は不明ですが、天台宗の僧侶でありながら浄土教の信者を作ったことで知られる千観と言う兄がいます。
実因の幼少期、ないしは俗名は詳しく伝わっておらず、彼が歴史の表舞台に登場するのは天徳3年(959年)です。得度・受戒して僧となった実因は天台宗の総本山たる比叡山延暦寺に赴き、延昌・弘延に師事しました。実因がいつ頃僧都(僧尼を管轄する僧官で僧正に次ぐ)を拝命したかは不明ですが、延暦寺西塔の具足房を住まいとしていたため、彼は具足僧都という別名で呼ばれています。
権少僧都、権大僧都を経て僧官としての地位を高めた実因は一条天皇の治世である長徳4年(998年)、大僧都に登り詰めますが、病に伏して河内(大阪府)の小松寺に隠棲して小松僧都とも呼ばれるようになりました。病が本復しなかったのか、それから2年後の長保2年(1000年)8月16日、実因は世を去ります。享年56歳。
伝説の中の実因は、無法者相手に大暴れ
ここまで紹介したのは、記録・史書に残された高僧・僧官としての実因にまつわる事跡です。以前に紹介した寛朝と同様、彼もまた説話の世界で超人的な活躍を見せる人物として描かれます。
児童書や学習教材などでも取り上げられることも多いため、比較的メジャーな説話となっているのが、『今昔物語集』に収録された実因僧都と強盗の戦いを描いた説話です。顕教と密教に優れた実因は相当な力持ちで、特に足の力に秀でていました。その強力さたるや、いたずら好きな弟子達が足指の間に挟んだくるみを殻ごと粉砕するとされています。
ある時、帝に招かれて加持祈祷を行った実因が内裏を出て一人で夜道を歩いていると、親切な男性がおぶってくれたのですが、彼の正体は良さげな着物を重ね着している実因を狙った夜盗だったのです。本性を現し、背中から降りろと恫喝する夜盗に実因が降りまいと抵抗したところ、
「降りたくねえとは何を言うんだい。なあ坊さん、あんたは命が惜しくないのかね?さあ、その着物をよこして貰おうかい!」
「お断りだ、こんな事とは知らなかったよ。一人寂しく歩いておる私をかわいそうに思い、貴男が背負って下さったのかと思ったのだ。この寒空に着物を脱ぐことなどできるわけがありますまい」
そう言うと実因は慌てず騒がず、負ぶわれたままで夜盗の腰を強靭な足で締め上げます。実因必殺の足技をまともに受けた夜盗は激痛のあまり降参しますが、実因は簡単に許しません。夜盗の背中に乗ったままで京の街をあちこち巡って夜景を楽しみ、夜明けになってから壇所(祈祷を行う場所)に帰ったのでした。
『今昔物語集』の編者は、実因の人に抜きん出た怪力・豪傑ぶりに驚嘆する一方で、夜通しのお仕置きから解放されて逃げていった夜盗(実因か寺関係者が与えたらしく、なんとか着物は手に入れている)に同情的なコメントを記し、この愉快な逸話は幕を下ろします。
このように武将や公家だけではなく、説話や物語に描かれる平安期の僧侶も史実とは大幅に異なる姿で描かれていることが多く、その多様性は新しい仏教が次々と生まれていった時代を象徴するに相応しいといえます。実因に限らず、当時の僧侶が登場する資料を手に取られる機会がありましたら、それらの文献ごとに描かれ方にも差異があるのを読み比べてみるのも一興かもしれません。
(寄稿)太田
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