ヤン・ヨーステンの解説~徳川家康に仕えたオランダ人【耶揚子】(やようす)

太田先生

ヤン・ヨーステンとは

徳川家康に仕えた外国人としては三浦按針ことウィリアム・アダムズが著名ですが、アダムズと共に来日した外国人がいます。その外国人こそが本項で紹介させていただくヤン・ヨーステンです。

ヤン・ヨーステンはオランダのデルフト生まれで、若き日の動向については不明点も多いですが、彼の一族はデルフト市やオランダ東インド会社で重役を務める名家に1556年に生まれたと言います。正式な姓名はヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインと言い、一般的にフルネームとして見られがちなヤン・ヨーステンは名の部分です。


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1598年、ヤン・ヨーステンは商船リーフデ号の航海士としてオランダのロッテルダムから船出しました。マゼラン海峡を通過して太平洋まで出るものの、モチャ島(現チリ)で船長のシモン・デ・コルテスをインディオに殺され、悪天候に遭うなど数々の災難に見舞われ、出国時に5隻あった船団は離ればなれになります。

ヤン・ヨーステンが乗り込むリーフデ号は、シモンの跡を継いで就任したオランダ人船長ヤコブ・クワッケルナックをはじめ、イギリス人ウィリアム・アダムズらと共に太平洋を横断しました。旗艦のホープ号とチリ南部沖で一度は合流するもホープ号は沈没してしまい、110名程度いたとされるメンバーは大半が遭難して日本の九州(※1)に着いた頃の生存者は24人だったと言います。時に慶長5年(1600年)4月19日のことです。

九死に一生を得たヤン・ヨーステンでしたが、不運はこれでは終わりませんでした。生存者は次々に落命して最終的には彼を含めてアダムズ、ヤコブ船長、書記のメルヒオール・ファン・サントフォールトら14人にまで減ってしまいます。更に、敵対するイエズス会宣教師らリーフデ号の面々を海賊だと進言し、彼らを死刑にすべきと徳川家康に訴えた事件に見舞われます。

徳川家康に謁見したリーフデ号のメンバーでは、何と言っても造船や外交で優秀な業績を残したアダムズが有名ですが、ヤン・ヨーステンも徳川政権の為に尽力しており、ヨーロッパ事情を伝えた他にも、砲術と貿易で家康を助けました。貿易による資金繰り、そして戦国期の我が国で重宝された銃砲の技術は、同時期に勃発した関ヶ原の戦いや豊臣との最終決戦である大坂の陣で役立ったことは想像に難くありません。

その後もヤン・ヨーステンは国際情勢や通訳、朱印船の貿易家など対外的な顧問として精力的に働き、ヤコブの帰国、そしてアダムズの死後も徳川幕府の繁栄に寄与しますが、その活動的な気質が皮肉にもヤン・ヨーステンの運命を暗転させます。彼はバダヴィア(現・インドネシアのジャカルタ)に渡って貴国の交渉を行うも難航し、日本へ帰国する航路で船がインドシナで座礁して溺死したのでした。来日から23年たった元和9年(1623年)、1556年生まれ説を採用すれば享年67歳のことです。

ヤン・ヨーステンが日本に残した足跡は家康に仕官したことだけではなく、家康の信愛を得た彼は江戸城の内堀沿いに屋敷を賜り、日本人女性と結婚して『耶 揚子』(※2)と言う日本名も名乗っていました。その耶揚子が八代洲、八代曾などと呼ばれ、後に八重洲となります。母国に帰ることはありませんでしたが、ヤン・ヨーステンは中央区八重洲の由来として記念像と共にその名をとどめ、今も東京と名を改めた江戸の地を見守り続けています。


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※1大分県の臼杵湾にある黒島。もしくは同県佐伯湾の大入島説もある。
※2ヤンヨウス、ヤヨウス、彌與三などと呼ばれていたと言う。

参考サイト

株式会社ブラートオランダ貿易

時空トラベラーThe Time Traveler’s Photo Essay

(寄稿)太田

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