最澄(さいちょう)は、平安時代の僧で、天台宗の開祖です。
法華経は聖徳太子が広め、天台仏教は鑑真が伝えましたが、最澄の入唐で大きく花開いたと言う事になります。
767年、三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として、近江・坂本の生源寺で生まれたともされます。
母の名は、藤子(とうし)ともされます。
12歳のとこに近江・国分寺にて出家したとありますので、2男や庶子などで家督を継げる立場ではなかったのでしょう。
780年に得度して名を最澄と改め、法名を最澄としました。
785年、東大寺で具足戒を受け、国から正式に認められた比丘(僧侶)となったのが19歳のときです。
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その後、本来であれば、奈良で修行するなどして僧侶の地位を高めていくのが普通です。
しかし、最澄は名誉や権力などの道を離れ、比叡山に登ると、草庵を構えて山岳修行・思索の生活に入ります。
788年、薬師如来を彫って本尊とし、のちに延暦寺根本中堂となる一乗止観院を創建しました。
薬師如来を照らすひとつの灯明は「不滅の法灯(ふめつのほうとう)」と呼ばれ、以来1200年以上もの間、一度も明かりが絶えることなく、今でも、比叡山の根本中堂に灯され続けています。
延暦21年(802年)、桓武天皇から唐での短期留学の勅命を受け、804年に九州から渡航しました。
通訳として弟子の義真(のちの初代天台座主)連れています。
なお、まだ得度したばかりで、まだ無名の空海(第1船)とおなじ時期だったようで、エリートの最澄は、遣唐副使の第2船に乗船したようです。
遣唐使船が難波(なにわ)を出航したのは803年でしたが暴風雨にあい、1年間九州に留まったため、804年に九州を出発したと言う事になります。
ちなみに第3船と、第4船は遭難しました。
唐の天台山では、行満から天台の教えを受け、また禅法、大乗菩薩の戒法、密教を学びました。
伝教大師最澄は、法華経を中心とする天台の教えこそが「すべての人が仏に成れる」と、仏へと導くために最善と確信したようで、805年に帰国します。
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そして、桓武天皇の要請にて、高雄山・神護寺に日本最初の公式な灌頂壇を設けました。
灌頂(かんじょう)と言うのは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位に達したことを証明することで、密教では、頭頂に水を数滴たらして正統な継承者とするための儀式としました。
806年1月、南都六宗のほかに独自の宗派として、天台法華宗が認められ「天台宗」が始まりました。
最澄は、弟子の飲酒に対して特に厳しかったとされ、飲酒した者は、自分の弟子ではなく仏弟子でもないから、すぐに立ち去らせたとあります。
また、空海から、真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借りているなど、仏教の研究も熱心だったようです。
しかし、日本の皇族・貴族などは、最澄が学んできた天台教義ではなく、空海が唐で修行した「密教」に興味を示すようになります。
そのため、813年、最澄は、弟子の泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣し、密教を学ばせました。
これは、自身もたくさんの弟子を抱えており、直接、空海から学ぶことが難しかったためですが、実質的に、身分も低く7歳年下の空海に弟子入りしたに等しいのですが、そんなことにはこだわらなかったようです。
819年、比叡山に大乗戒壇を建立し天台宗独自の授戒制度を奏上しましたが、南都六宗が反対して許されない中、822年、最澄は比叡山の中道院で遷化しました。享年56(満54歳没)
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死後7日目に建立の勅許が出ており、嵯峨天皇は、最澄の死を大変惜しみ「延暦寺」という寺号を授けました。
866年には清和天皇から伝教大師の諡号を贈られましたが、これは日本最初の大師号となります。
これは、最澄が日本仏教の発展に、いかに寄与したかを示すものであり、最澄は「伝教大師最澄」と称されるようになりました。
のち、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった僧侶も比叡山で学び、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗といった新しい宗教も開花するのでした。
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