聖徳太子と倭国改革~国家の礎を建設した古代英雄の思想を探る

聖徳太子

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日本人として産まれたのであれば必ず知っているはずの歴史上の偉人として聖徳太子(厩戸皇子)が挙げられる。
学校の授業などでは冠位十二階や憲法十七条を制定した大昔の政治家といった感覚で記憶している人が多いのではないだろうか。
しかし、実際には聖徳太子が当時の倭国にもたらした功績により、国家の政治体制や他国との外交関係もその後の時代に大きな影響を与えている大偉人なのである。
すなわち、現代までに至る日本国家の政治や外交をはじめ、日本人としての思想・理念・道徳・信仰にいたるまでその礎を築いた人物であるといえるのだ。
今回は聖徳太子が残した足跡をたどり、太子の思想や人物像に迫ってみたい。


聖徳太子-しょうとくたいし-/厩戸皇子-うまやどのみこ・うまやどのおうじ-

574年(敏達天皇3年)2月7日~622年(推古天皇30年)4月8日
用明天皇(第31代天皇)の第二皇子であり推古天皇の甥にあたる。
二十歳にして推古天皇の摂政を務め、蘇我馬子と共に倭国の政治を行うこととなる。
聖徳太子という名称は本人の死後129年を経た751年頃の日本漢詩集「懐風藻」にて初めて登場したとされており、平安時代にはすでに通名となっていたようである。
したがって、本人の存命中には聖徳太子という名は存在しておらず厩戸皇子という名が本名である。

物部氏と曽我氏の対立

厩戸皇子が誕生したこの時代の日本は、まだ政治体制そのものが整っておらず大和王権と有力豪族が権力によって支配する混乱の時代であった。
国名もまだ日本ではなく倭国と呼ばれていた。
国家としての体制が確立されていないこの頃の倭国では、法や秩序も定まっていなかったため全ての決定権は支配していた豪族にあり、政治も豪族の思惑によって行われていた。
当然、富や権力も欲しいままの無秩序な状況であった。
民は苦しい生活を強いられ餓えていたという。
宮廷内においても血で描かれた権力争いが繰り広げられていた。
当時権力を二分していた物部氏と曽我氏による対立が深まり、ついには内戦へと発展する。
この争いの発端は倭国に伝わった仏教にあり、仏教を浸透させ新たな国づくりを考えた蘇我馬子と、外来の宗教や思想を排除しようとした物部守屋の対立にあった。
二大勢力の権力争いには厩戸皇子も曽我軍として参戦している。
そしてこの戦いは曽我氏の勝利に終わり、物部氏の勢力は衰退していくことになる。
これにより、全政権を握ったのが蘇我馬子であったが、この後馬子は自らが即位させた崇峻天皇との関係が悪化すると殺害し、次に即位させた女帝・推古天皇によって摂政に任ぜられた厩戸皇子と共に倭国の政治改革を推し進めていくこととなる。


摂政としての厩戸の改革

「政(まつりごと)を行う者が太陽や月のようにあまねく国を照らす者とならなければ、幸福な国を創ることはできない」これは摂政となった厩戸が残している思想である。
後に聖徳太子と称されることとなる厩戸皇子は、仏教の教えにある慈悲の心によっての理想国家の建設に取り掛かっていく。
厩戸が摂政に位に就いていたその頃、国家の情勢もまた大きな変動が起こっていた。
永らく分裂していた現在の中国を隋が統一し、超大国が誕生していた。
この事態に朝鮮半島の高句麗・百済・新羅といった国々はすぐさま国交と君臣関係を結ぶための使節を早急に送っている。
そして、隋王朝誕生の知らせは倭国にも届き、厩戸はその対処に迫られる。
放って置けば巨大帝国の隋に、近隣の小国である倭国などすぐさま滅ぼされ領土も奪われる恐れがあるのは明らかである。
しかし、この頃の倭国は100年以上大陸との国交を行っておらず、その対応に悩んだ厩戸は高句麗から渡来した僧侶の慧慈(えじ)を頼る。
その慧慈に厩戸は隋の皇帝・楊堅(文帝)や隋の大都市・長安の繁栄にまつわる情報などを教えられたといわれている。
また、中央集権国家として整えられた政治体制や法制度といった進んだ国家政体と思想は、当時の倭国の私利私欲による豪族支配の政治とは天と地ほどの開きがあったことも慧慈をはじめ多くの渡来人からの情報で知り得たと考えられる。
そこで厩戸は隋に浸透しているという仏教と儒教を熱心に学ぶようになったという。
国家や民を私物化してはいけない、慈悲の心を持って餓える者にも手を差し伸べ共に国を繁栄させるという厩戸の思想は、大帝国の出現により逆境に立たされたこの頃に培われたのかもしれない。

第一回遣隋使

600年(推古天皇8年)厩戸は第一回遣隋使を送っている。
隋の歴史書・隋書によればこの時、倭国の使者は隋の役人に「倭国の王は天を兄とし太陽を弟とする。
王は兄である天が明るくなるまで王宮で政を行い、弟である太陽が昇ったあとは政を行わない」と述べたという。
これは明らかな失態であった。
天皇神格化という、古事記や日本書紀(注:この時期にはまだ古事記も日本書紀も存在しない)にも見られる天皇(この頃は大王-おおきみ-と呼ばれている)を神とする信仰を神話にした話を、大王の権威を伝えるために隋の役人に用いてしまったのだ。
これはまるで、自国が現実的な政治体制も教養もない遅れた非現実的な国だと白状しているようなものである。
これを聞いた文帝はあきれて当然倭国とは国交を結ぶことはしなかった。

冠位十二階の制定

第一回遣隋使での屈辱から3年後の603年(推古天皇11年)に厩戸皇子により、徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大・小に分けた12階の冠位である冠位十二階が制定された。
これまでの豪族による家柄や世襲による私欲による政治ではなく、それぞれに役割が分担され、それに応じた能力を備えた者によって政治を行っていくシステムである。
これは官僚による政治体制の礎となった制度である。
そして、小墾田宮-おはりだのみや-という宮殿もこの頃に造られていて、あらゆる施策がこの宮殿にて行われたと考えらている。

憲法十七条の制定

604年(推古天皇12年)4月、厩戸皇子は憲法十七条を完成させ発布している。
これにより、倭国の官僚制度を整え役人と政府による政治体制が確立した。
すなわち、これまでの豪族による私利私欲のための支配ではなく、大和王朝に国家を運営していくための法秩序がもたらされたのである。
その憲法十七条の内容は以下の通りである

一に曰く、和を以て貴しとなし、忤うこと無きを宗とせよ。
「第一条、和を大切にし、争いを起こしてはいけません」
二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり。則ち四生の終帰、万国の極宗なり。
「第二条、あつく三宝を敬いなさい。三宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは命ある者にとって最後のよりどころとなり、すべての国における究極の規範となる」
三に曰く、詔を承けては必ず謹め。
「第三条、大王(天皇)の命令には必ず謹んで従いなさい」
四に曰く、群卿百寮、礼をもって本とせよ。
「第四条、すべての官人は、礼の精神を根本に持ちなさい」
五に曰く、餮を絶ち、欲を捨てて明らかに訴訟を弁えよ。
「第五条、官人たちは饗応(接待を受ける)や賄賂といった欲望を捨て、民の訴えは厳正に裁きなさい」
六に曰く、悪を懲らし善を勧むるは、古の良き典なり。
「第六条、悪を懲らしめて善を行うことは昔から良いことである」
七に曰く、人各任有り。掌ること宜しく濫れざるべし。
「第七条、人それぞれに合う任務がある。そして、職務は忠実に行い職権乱用はしないこと」
八に曰く、群卿百寮、早く朝りて晏く退け。
「第八条、官人は朝早くから夜遅くまでしっかり働きなさい」
九に曰く、信は是義の本となり。事毎に信あれ。
「第九条、真心を持って人と接するのは人道の根本である。いつも真心を持ってお互いに信じあいなさい」
十に曰く、忿を絶ち瞋を棄て、人の違うを怒らざれ。
「第十条、怒りを捨てなさい。人が自分と違う考えや行いをしても怒ってはならない」
十一に曰く、功過を明らかに察して賞罰必ず当てよ。
「第十一条、官人たちの功績や過失を明確に判断して、それに応じた賞罰を必ず与えなさい」
十二に曰く、国司国造、百姓に斂めとることなかれ。
「第十二条、官人・役人が勝手に民から税をとってはならない」
十三に曰く、諸々の官に任ずる者、同じく職掌を知れ。
「第十三条、それぞれの官職に任ぜられた者は、自分の仕事と同じように他の職務の内容も知っておきなさい」
十四に曰く、群卿百寮、嫉妬あることなかれ。我既に人を嫉めば、人もまた我を嫉む。
「第十四条、官人たちは、お互いに嫉妬の心を持ってはならない。まず自分が誰かに嫉妬することで、その相手も自分を嫉妬する」
十五に曰く、私に背きて公に向かうは、是臣の道なり。
「第十五条、私利私欲を捨てて公務を行うのが臣たる者の道である」
十六に曰く、民を使うに時をもってするは、古の良き典なり。
「第十六条、民を使う時は時期を見計らいなさい。それは昔からの良い教えでもある」
十七に曰く、事は独り断むべからず。必ず衆と共に宜しく論うべし。
「第十七条、大事なことは一人で判断せずに、必ず皆で話し合って決めなさい」


第二回遣隋使

国家の基盤は整った。
してついに厩戸は大帝国の隋に再び使者を送る決断をする。
その大役を冠位十二階の大礼の位に就いていた小野妹子に任じるのであった。
厩戸は小野妹子に隋の皇帝に宛てた書状を託した。
607年(推古天皇15年)小野妹子は大陸へ渡り、国書である倭王から隋の皇帝・楊広(煬帝)に宛てた書状を献上した。
隋の歴史書である隋書には、厩戸が小野妹子に託した国書の書き出しを読み激怒し「無礼な蕃夷の書は今後朕に見せるな」と命じたと記されている。
煬帝が激怒したという国書に記されていた内容は「日出処の天使、書を日没する処の天使に致す。
恙無しや、云々」これはつまり「日が昇る国(倭国)の王より太陽が沈む国(隋)の皇帝に書状を送ります。
お元気にお過ごしでしょうか?etc」といったことになる。
まず、倭国の王を天子と称していることに立腹したとされている。
古代より中国の皇帝は天子とされていて、倭国の王が天子を用いることは、隋の皇帝と同等の立場であることを暗に示しているからだ。
文面そのものの内容も超大国の皇帝に宛てた書状としては失礼な内容でもあるが、厩戸はあえてこのような内容をしたためたと考えられる。
そのような文章を読めば煬帝が怒ることは知っていたはずだが、属国としてではなく独立した同等な立場での国交を結ぶために、厩戸は毅然とした態度で国書を贈ったということになる。
正式な冠位にある小野妹子が使者として来たことは、倭国に官僚制度や法秩序といった国家体制が整っていることを示しており、激怒はしたものの煬帝からすれば倭国との外交も可能になったとことを悟る結果となった。
しかも当時の隋は高句麗と敵対関係にあり、倭国まで敵に回すわけにはいかない状況でもあった。
608年(推古天皇16年)小野妹子は煬帝の使者である裴世清を連れ帰国する。
裴世清は小墾田宮にて推古天皇に拝謁し煬帝から託された国書を読み上げた。
その文には、皇帝から倭皇に問う。
といった書き出しから倭皇は海のかなたにて良く人民を治め国内安楽、風俗おだやかであることを知った。
こころばえ至誠に遠くから朝献してきたことを朕は嬉しく思う。
といった内容が記されており倭国の王を倭皇として扱っている。
煬帝が倭国の王を一国の王として認め、国交を結ぶことを伝えたのだ。
そして煬帝からの国書に対する返書には「東の天皇、敬いて西の皇帝に白す」という書状を贈っている。
これには「天皇」という称号が用いられており、それまでの大王から天皇を用いる始まりであるとする説もある。


厩戸皇子と理想国家

厩戸は仏教や儒教の教えである慈悲の心をもって民を治め、国家を建設することを理想とした。
厩戸は現在の法隆寺の近くにあったとされる斑鳩に居を構え、そこで仏教や儒教などの経典の研究に没頭したという。
そして苦しむ民のため、施薬院(薬をつくる施設)・療病院(病気の治療を行う施設)・悲田院(貧しい者や孤児を救済する施設)・敬田院(仏教の精神を基に教育を行う施設)など四箇院と呼ばれる施設をつくっている。
これらはそれぞれ、現代においても欠かせない施設でもある。
これらの病院・介護・学校といった基盤を整えた人物でもあったのだ。
慈悲の心を持って皆が正しく健全に生きる国家建設と改革を行った厩戸皇子の功績は、現代の豊かな社会に根付いているのではないだろうか。
622年(推古天皇30年)4月8日、病に倒れた厩戸皇子は49歳でこの世を去った。

(寄稿)探偵N

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