蘇我入鹿暗殺~古代史のミステリー乙巳の変の真相を探る

蘇我入鹿


強大な権力で政を思いのままに動かし、大王(おおきみ)の権威さえもないがしろにしていた蘇我入鹿は、自らが帝位につき国家の支配を目論んでいた。
そこで立ち上がったのが中大兄皇子と中臣鎌足。
彼らが協力して主導し、蘇我入鹿を討ち取り大王をの権威を取り戻したという事件が、古代史最大のクーデターとされる乙巳の変である。
そして、乙巳の変がきっかけとなり公地公民など天皇を中心とする政治改革である大化の改新が行われた。
というのが、歴史の教科書に載っている645年に起こった大化の改新の大まかな内容であり、誰もが小中学校の時に授業で習ったことであろう。
これは、現存する日本最古の正史である日本書紀に記載されている内容であり、近年ではその経緯に疑問を提唱する歴史学者も少なくない。
そもそも大化の改新のきっかけである乙巳の変の本当の首謀者は、中大兄皇子と中臣鎌足の他にいたという説もあるのだ。


今回は、古代史最大のミステリーとされる乙巳の変の真相について探ってみたい。

蘇我入鹿-そがの・いるか-
●生誕/不明
●死没/645年6月12日(皇極天皇4年7月10日)
蘇我蝦夷の子で、蘇我馬子の孫にあたる。祖父・父と大和朝廷の大臣(おおおみ/おおまえつぎみ)を務め、入鹿も皇極天皇2年10月6日に大臣の地位を父より受け継ぐ。
代々、大臣として権力を欲しいままにしてきた蘇我氏の家督も受け継いだ入鹿は、名実ともに実質最高権力の座に就くこことなる。
日本書紀においては、天皇の皇位継承にまで影響を与え、女帝・皇極天皇の次期天皇には入鹿とは従兄弟関係にあたる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を即位させようとしていた。
これは自らの権勢の基盤をさらに強固なものにするためとされる。
そして、その際に邪魔となったのが、聖徳太子(厩戸皇子)の子であり次期天皇の最有力候補でもあった山背大兄王(やましろのおおえのおう)の存在である。
聖徳太子が推し進めていた天皇を中心とする政治から、蘇我家の実権を絶対的なものとするためにも、入鹿は山背大兄王や聖徳太子の一族(上宮王家)を討ち滅ぼした。
さらには現代の奈良県明日香村、甘樫丘に築いた邸宅の門を「宮門(みかど)」と称し、自らの子を王子(皇子/みこ)と呼ばせ、皇室の行事まで独断で行っていたとされる。
宮門とは宮廷の門のことであり、王子とは言わずと知れた皇族(王族)の呼称のことである。
このような蘇我入鹿の傍若無人で天皇さえもないがしろにした横暴な行いに、ついに中大兄皇子と中臣鎌足らによって暗殺され、蘇我氏の権威は失墜したとされる。

皇位継承問題と山背大兄王の殺害の謎

皇極天皇の次期天皇候補には、以下の4名が挙がっていた。

● 軽皇子(かるのみこ)
 皇極天皇の弟にあたる人物。
● 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
 蘇我入鹿の従兄弟にあたる人物。
● 中大兄皇子(なかのおおえのみこ)
 皇極天皇の息子。
● 山背大兄王(やましろのおおえのおう)
 聖徳太子の息子。次期天皇最有力候補。

当時の天皇継承者を選ぶ基準は、血縁だけでなく、年齢・政の経験・豪族を掌握しうる人格や威厳などが重視されていた。
この頃は、各領地を支配していたのは天皇(大王)ではなく、豪族であったからだ。
そのため、豪族を従わせるための力量が伴っていなければ政を行うことは難しかったのだ。
ここで問題となるのは何故、蘇我入鹿は次期天皇最有力候補であった山背大兄王を討つ必要があったのかである。
もともと聖徳太子は蘇我氏の系譜であり、山背大兄王は蘇我氏の従兄弟にもあたる人物であった。
日本書紀によれば、入鹿が次期天皇に古人大兄皇子を擁立しようとし、そのために山背大兄王との関係が悪化。
そして皇極天皇2年11月(643年12月)入鹿の独断で山背大兄王と上宮王家を襲撃し、自害に追い込んだとされる。
他の文献(藤家家伝)によれば、日本書紀とは矛盾するが、山背大兄王による謀反の可能性ありとして他の皇族と連携し襲撃した。
という記述もある。


これについては入鹿独断かそうでないかの違いと山背大兄王謀反の疑いがあったという正当な理由があったということだ。
ところが、この入鹿の山背大兄王襲撃そのものが彼の主導ではなかったとすると、これまでの認識も覆ることになるだろう。
つまり、入鹿の意思ではなく、命によって実行したということだ。
代々、蘇我氏は天皇家との婚姻関係などにより、皇族との結びつきによって地位と政への影響力を持ってきたという側面もある。
そして、蘇我入鹿と山背大兄王とは従兄弟という関係でもあった。
もし、山背大兄王が天皇に即位することになれば、入鹿にとってもそれほど悪い話ではないし、殺害するまでの動機が生まれるとは考えにくい。
では、山背大兄王が即位することで、最も都合が悪い人物とは誰だったのであろうか。
その人物について考察する。

中大兄皇子
まず中大兄皇子だが、この時点では年齢18歳であり、年齢的にも経験・能力的にも次期天皇の後継者にはなり得ない。
したがって、山背大兄王殺害の動機があったということは考えにくい。

軽皇子と古人大兄皇子
軽皇子の年齢はこの時推定47歳。
古人大兄皇子の年齢は30代であったとされている。
年齢的には後継者となり得ることから、山背大兄王がいなくなれば即位する可能性があった。
つまり、山背大兄王殺害の動機があったということになる。

皇極天皇
もう一人、山背大兄王殺害の動機を持っていたと考えられる人物がいる。
それは、皇極天皇である。
皇極天皇は、天皇家の権威を示し中央集権国家への道を推し進めるため、奈良の飛鳥に巨大な都の建設を計画していた。
しかし、山背大兄王は聖徳太子が建設した斑鳩宮を拠点としており、即位すれば斑鳩が都となるであろう。
そうなれば、天皇家の拠点は斑鳩へと移ることになる。
皇極天皇にとっては飛鳥の都の夢が潰えることになるのだ。
天皇として推し進めた一大計画が水泡に帰すことは、これ以上にない屈辱でもあったであろう。

山背大兄王襲撃【皇極天皇黒幕説】

日本書紀には蘇我入鹿が独断で山背大兄王を襲撃し、自害に追い込んだと記されている。
それがたとえ他の文献にあるように単独によるものではなかったとしても、皇族である山背大兄王や上宮王家を滅ぼしたことに違いはない。
いかに大臣の地位にあったとしても、皇族の殺害は万死に値する大罪のはずであろう。
その時点で謀反を疑われても仕方がない行為である。
ところが、皇極天皇は入鹿を罰することはなかった。
それどころか蘇我家の系統であり入鹿の従兄弟である古人大兄皇子を次期天皇に任命したのである。
この蘇我入鹿の大罪行為に対し、罰するどころか遇するような皇極天皇の行いを考えた場合、一つだけ納得のいく構図が浮かび上がる。
それは、蘇我入鹿の山背大兄王襲撃は皇極天皇の後ろ盾があった場合である。
つまり、皇極天皇の命により入鹿が動いたということだ。
その後、皇極天皇は自身のの理想郷であった飛鳥京建設を推し進めていくことになる。
ここで次期天皇候補の一人であった軽皇子は、この時点で天皇の後継者争いから脱落することになった。


蘇我入鹿暗殺計画【軽皇子黒幕説】

皇極天皇と蘇我入鹿の関係が深く結び付くことで、皇極天皇は蘇我入鹿の強大な権力・財力・軍事力を味方につけることになり、入鹿にしても天皇という強大な後ろ盾を得て、さらに権力を強固なものにしていく。
皇極天皇と蘇我入鹿、そして古人大兄皇子という、それぞれに有益な関係が成立したことになる。
しかしここで一人、苦渋を飲まされる結果となった人物がいた。
軽皇子である。
皇極天皇の弟という立場でありながら、天皇とは直接の血の繋がりもない古人大兄皇子に天皇の地位を譲ることは、軽皇子にとっては山背大兄王が天皇になることよりも屈辱であったであろう。

そしてもう一人、苦渋を嘗める事態に陥っていた人物いた。
日本書紀によれば乙巳の変の首謀者の一人とされ、多くの人々もそう認識しているであろう、中臣鎌足である。
中富家はこれまで代々天皇家の神官を担ってきた。
神道の信仰において神に仕え、祭祀を司る地位にあったのだ。
しかし、蘇我入鹿はこの頃神道に代わり仏教の浸透を推し進めていたのだ。
その入鹿が天皇との関係を強めることにより、神官としての高い地位を望むことは絶望的となってしまう。
この時点で蘇我入鹿の存在が疎ましいものとなっていたのが、軽皇子と中臣鎌足ということになる。
日本書紀には軽皇子が乙巳の変に関わったという直接的な記述はない。
ところがちょうどこの頃、蘇我入鹿の山背大兄王襲撃の翌年となる644年、中臣鎌足が軽皇子を訪れたという記述が残っているのだ。
ここにはこう記されている「誰能不使王天下」と。
つまり「軽皇子が天下の王となることに誰が逆らえましょう」ということになる。
この記述は、軽皇子と中臣鎌足の結託を暗に示しているようにも考えられる。
そして蘇我入鹿暗殺を計画。
皇族であり皇極天皇の子(軽皇子の甥)である中大兄皇子をはじめ、蘇我蔵山田石川麻呂-そがくらのやまだいしかわまろ-・佐伯連子麻呂-さえきのむらじこまろ-・葛城稚犬養連網田-かづらきのわかいぬかいのむらじあみた-らの豪族を計画に率いれていった。
これら石川麻呂・子麻呂・網田といった有力豪族を仲間に加えることのできる吸引力や統率能力を考慮すると、中臣鎌足の当時の地位や中大兄皇子の若さから大臣暗殺の首謀者としては心許ない。
その背後に軽皇子の存在があったことは充分に考えられる。
ただし、皇極天皇と蘇我入鹿が深い関係にあった場合、入鹿暗殺の実行は謀反として天皇への反逆者となる可能性もあった。
万が一、暗殺に失敗すれば軽皇子にとっては反対に自分自身の命が危なくなるはずである。
いわば大きな賭けでもあった。
それを実行に踏み切るにはどのような背景があったのであろうか。

蘇我入鹿暗殺計画の背景

もし、中大兄皇子や中臣鎌足らの黒幕として軽皇子の存在があったとした場合、軽皇子にとって機運が高まっていたといってもよかったであろう。
この頃、皇極天皇は飛鳥京建設に心血を注いでいたのだが、天皇家に仕える労働力だけでは追いつかなかった。
そこで飛鳥京建設の労働力として、各地から民を動員するための詔(みことのり)を発布している。
しかし、当時は天皇と民は直結しておらず、各地を支配している豪族の同意が必要だったのだ。
そのため労働力は思うように集まらず、飛鳥京の建設は難航していた。
また、頼りにしていたであろう、強大な権力を誇っていた蘇我入鹿も飛鳥京建設に協力した形跡がないのである。
入鹿が甘樫丘に大邸宅を築き、その門を宮門、子を王子と称したのはこの頃とされている。
あまりにも強大な権力を手にした入鹿の行いに皇極天皇は業を煮やし、脅威さえも感じ始めていたのではないだろうか。
実際の入鹿の心中はわからない。
しかし、自らが天皇に取って代わり支配するという野心を抱いていてもおかしくはなく、その力も備えていたのだ。
それに乗じ、軽皇子は姉でもある皇極天皇に近づいた可能性はあるだろう。
ここで、軽皇子が掲げたのが蘇我入鹿を討ち、豪族を介さず民を動かすことができる公地公民といった改革を打ち出したとすれば、皇極天皇にとっても悪い話ではなかったはずだ。
そして皇極天皇はそれを容認する。
これにより、軽皇子は権力と政を欲しいままにする蘇我入鹿を討ち、改革によって天皇による国家を構築するという大義名分ができたことになる。
皇極天皇と軽皇子の利害関係成立には、入鹿暗殺の成功が絶対条件となる。
失敗すれば軽皇子の命が危ないことに変わりはなく、絶対的な力を持つ入鹿を敵に回すことは天皇家にとっても脅威となるだろう。
皇極天皇も表立って動くことはできない。
全ては確実に入鹿の命を奪えるかどうかにかかっていた。


蘇我入鹿暗殺計画の実行

645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、この日は新羅・百済・高句麗より使者が訪れ天皇へ貢物を捧げる儀式が大極殿(朝廷の正殿)にて執り行われた。
そこには、皇極天皇・大臣の蘇我入鹿・皇太子の古人大兄皇子・天皇への貢物を取り扱う役職であった蘇我蔵山田石川麻呂・新羅・百済・高句麗の使者が出席しており、大極殿の物陰には中大兄皇子・中臣鎌足・佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田らが身を潜めていた。
儀式は始まる。

石川麻呂が貢物の文を読み上げる。計画では、ここで子麻呂と網田が入鹿に斬りかかる手筈となっていた。

しかし、子麻呂と網田は恐怖あまり動くことができない。

入鹿暗殺計画に加わっていた石川麻呂は文を読み上げる声が震え、全身が震え、多量の汗が噴き出てくる。

いっこうに子麻呂と網田は現れない。

恐怖と緊張の頂点に達している石川麻呂の様子を不審に思った入鹿は「なぜ震えている」と石川麻呂に問う。

これに石川麻呂は「天皇のお側に近くにいることが恐れ多く不覚にも汗が流れたのです」と応える。

その時、子麻呂と網田が恐怖で動けないことを悟り、中大兄皇子が皇子の身分でありながら自ら物陰から飛び出し、入鹿に斬りかかった。

入鹿の血が飛び散る。

これに乗じて子麻呂と網田も飛び出し、次々に入鹿を斬りつける。

その場に倒れ、入鹿は息も絶え絶えに皇極天皇に這って近づきこう叫ぶ「臣不知罪(やつこ罪を知らず)」わたくしに何の罪があるのでしょうか。と。

これに皇極天皇は中大兄皇子に問うた。

中大兄皇子は「入鹿は天皇家を滅ぼし、皇位を奪おうと企んでおります」と応える。

中大兄皇子がそう応えると、皇極天皇は静かに奥へ退く。

そして入鹿は子麻呂と網田によって斬り殺された。

入鹿の亡骸は、無残にも庭に放り出されたという。この出来事を目の当たりにした古人大兄皇子は、私宮に逃げ帰り門を閉ざした。入鹿の父である蘇我蝦夷は、この報を知り邸宅に火を放ち自害する。
皇極天皇は蘇我入鹿暗殺に関わった者を一切処罰することはなかった。


645年7月12日(皇極天皇4年6月14日)、皇極天皇は退位、軽皇子が孝徳天皇として即位する。
そして645年7月17日(孝徳天皇元年6月19日)に日本で最初の元号となる「大化」に建元が行われ、この年を「大化元年」とした。
孝徳天皇は公地公民などの改新の詔を発布。そして「大化の改新」と後に呼ばれることとなる改革を行う。
中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足は内臣として政の中枢を担い中大兄皇子を助け、大化の改新遂行に大きく貢献する。

言わずも知れた、中大兄皇子は後の天智天皇であり、中臣鎌足は後の藤原鎌足である。

(寄稿)探偵N

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