安楽庵策伝とは
戦国期の日本では学問や信仰のみならず外交や軍事でも仏教僧が活躍しましたが、説話集、それも笑い話の集大成をまとめ上げたことでその名前を不動のものにした僧侶がいます。その僧侶こそ、“落語の祖”と呼ばれる安楽庵策伝(あんらくあん‐さくでん)です。
策伝は天文23年(1554年)、美濃国に生まれました。一般的には金森氏生まれで織田信長に仕えた武将で文化人としても著名な金森長近が兄だと言われていますが、策伝が俗名を平林平太夫と名乗っていたことや、彼の宗派は金森家が帰依していた曹洞宗ではなく浄土宗であることから、否定的な意見もあります。
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策伝が僧となったのはわずか7歳のときで、浄土宗の寺院である静音寺(岐阜市)の策堂文叔に弟子入りして修行し、永禄7年(1564年)に上洛して禅林寺(京都市)の智空甫叔に師事しました。成人後は山陽地方の諸寺を再興させる事業に取り組み、宇喜多氏が開基となった大雲寺創建にも関わったと言います。
栄達と名著の完成
その後、策伝は文禄3年(1594年)に正法寺(堺市)に住し、2年後には生まれ故郷の静音寺に戻り、25世住持を17年間務めあげました。慶長18年(1613年)には誓願寺55世法主という高位に登り詰めます。また、後水尾天皇の勅を受けて清涼殿へ参上し、曼荼羅を説く栄誉に浴しました。
それから2年後の元和元年(1615年)、説法に面白おかしい話を加えるのを好み、それを得意としていた策伝の話が面白いと絶賛した当時の京都所司代・板倉重宗は草子にすることを勧めます。その書物こそが『醒睡笑』で、その由来は同書の序文に策伝が“をのつから睡をさましてわらふ”と記したことによるものです。
これは1039話もの膨大な量の笑い話を策伝が若き日から書き溜めたものであるとされ、『宇治拾遺物語』『今昔物語集』『沙石集』『平家物語』などの日本文学のみならず、中国の古典や当時の南蛮貿易と共に我が国に渡来していたイソップ物語(日本名を伊曽保物語)の影響も見られる壮大な笑話集でもありました。この『醒睡笑』は後に多くの咄本(笑い話や小噺を集めた書籍)や落語に多大な影響を与え、日本の古典芸能や文学に今もその足跡を残しています。
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現代まで残る文化への貢献
策伝の功績は宗教家や文学者としてのものばかりでなく、多芸多才な文化人としても名を残しています。兄とされる金森長近、その養子である可重は茶人として著名ですが、策伝も茶の湯に精通しており、古田織部の高弟として茶の道に精進していました。彼のデザインや趣向を活かした茶道具は安楽庵好みと呼ばれ、策伝が愛用した袈裟に因む安楽庵裂、安楽庵茶室、安楽庵釜などが今も茶道で使われています。
また、策伝は長年に渡ってツバキを収集して『百椿集』を編纂し、自らの詠んだ和歌や狂歌を収録した『策伝和尚送答控』を編集、そして僧侶や公家のみならず文化人の小堀政一や歌人・松永貞徳、3代将軍徳川家光と言った多くの人々と身分を超えて親交を深めました。89歳と言う当時としては驚異的な長寿を保って多方面で活躍した安楽庵策伝は寛永19年(1642年)に死去し、京都の誓願寺に葬られました。
このように、茶道を始めとした文化史に多くの足跡を残した策伝は、明治期に活躍した評論家である関根黙庵氏をして落語の祖と言わしめます。特に出身地である岐阜市では命日の1月8日に“安楽庵策伝顕彰落語会”が、毎年の2月に“全日本学生落語選手権大会・策伝大賞”が行われており、落語を始めとした笑いの文化とは切っても切れない偉人としてこれからも多くの人に笑顔を届けていくことでしょう。
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参考サイト(敬称略)
岐阜県図書館
誓願寺ホームページ
岐阜市観光ナビ
やたがらすナビ 醒睡笑
きものと悉皆
(寄稿)太田
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