八柏道為(やがしわ-みちため)は、戦国時代の武将で、出羽・八柏館主でした。
鎌倉時代に、小野寺氏が下野から出羽・雄勝郡の地頭職に任命された際に、同行した家臣のひとり、落合十郎が八柏氏の先祖となります。
その末裔が、寛正元年(1460年)に八柏に入り、八柏道友(八柏大和守道友)と名乗りました。
なお、八柏氏は代々「大和守」を称しています。
ただし、諸説あり、八柏氏は鎌倉時代に平鹿郡の地頭であった平賀氏(松葉姓)の子孫と考えられています。
まぁ、婿入りでもしたのでしょう。
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戦国時代には、横手城主となった小野寺輝道・小野寺義道に仕えました。
小野寺輝道の父・小野寺稙道が、家臣である横手光盛や金沢八幡別当・金乗坊に殺害されたあと、八柏道為は小野寺輝道の復活を助けます。
そして、小野寺輝道がかたき討ちするのを導き横手城主に戻しました。
また、1552年には、横手城を小野寺輝道と共に守備して、敵を退けています。
八柏道為は、知略に優れた軍師で、小野寺輝道は八柏道為を信頼して、小野寺一門扱いにし、出羽・湯沢城を任せています。
1586年、最上領になっていた旧領回復のため、小野寺義道が攻めた有屋峠の戦いにも参陣します。
このとき、八柏道為の軍略にて、最上勢を多数を討ち取ることに成功しましたが、小野寺勢も真壁道泉・黒沢島之助が討死するなど約500が討死し、退却しています。
また、庄内城の大宝寺義勝や、本庄城の本庄繁長と親交を深め、南北から最上義光を圧迫しました。
この八柏道為の活躍に業を煮やした最上義光は、楯岡満茂に命じて、八柏道為が最上家に内通しているという「偽の書状」を、小野寺義道の目に触れるように謀略を用いました。
なんでも、八柏道為が最上氏に内応した旨の偽書を作って、その偽の書状を、小野寺義道の弟である吉田城主・小野寺陳道に、間違えて届けてしまったと言うように、装ったそうです。
そのため、小野寺義道は疑心暗鬼となり、1995年、八柏道為を横手城に呼び出すと、大手門前にある中の橋で待ち伏せし殺害しました。
この時、楯岡満茂を総大将にした最上勢は、叔父・八柏孫七(小野寺美作守)が残っていた湯沢城を攻撃しました。
湯沢城では、八柏孫七と嫡男・八柏孫七郎、弟・八柏孫作の兄弟が籠城しましたが、小野寺義道は横手城から出ずに見捨てるカタチとなっています。
八柏孫七らは力の限り戦うと、妻子を刺し殺し、腹十文字に掻き切って自害したと伝わります。
こうして、湯沢城には楯岡満茂が入りましたが、小野寺氏は湯沢城を奪回する事は出来ず、衰勢は決定的となり、関ケ原の戦いでは最終的に上杉景勝に味方したため所領没収・改易となります。
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なお『奥羽永慶軍記』にには、三十一ヵ条から成る「八柏大和守掟条々」が記されています。
一部抜粋してみます。
「八柏大和守掟条々」の一部
(1)戦場で大将の命令に背いてはいけない。ただし勝利が確実の時は背いても構わない。
(2)他人の討ち取った首を奪えば死罪とする。
(3)他国を臆病で退出したものは召抱えてはならない。
(4)敵方の使者をむやみに斬ってはならない。
(5)他国を攻めようとするときは、大将の命令を受けて行え。
(6)収穫前の敵方の稲を刈り取ってはならない。
(7)味方の不利を見棄て逃げるものは死罪とする。
(8)味方の砦の包囲を救わず、他の戦いをするは、たとえ勝利しても賞に値しない。
(9)喧嘩は親類朋友であっても関与してはならない。
両者臆病のため討ち果たさぬときは双方を死罪とする。
この「掟条々」からも分かりますが、八柏道為は小野寺家を支えた名将でした。
・小野寺輝道(小野寺景道)とは
・小野寺義道 仙北一揆で所領を減らし関ケ原の戦いで改易
・楯岡満茂とは
・横手城 小野寺氏が本拠地にした出羽の拠点
・出羽・湯沢城 小野寺経道の本拠地で佐竹南家が整備した山城
・小野寺義道 仙北一揆で所領を減らし関ケ原の戦いで改易
・最上義光とは~羽州の狐・虎将と呼ばれた勇将
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