1553年に生まれた矢沢頼康(矢沢頼幸、矢沢三十郎頼幸)の父は、真田幸隆の弟・矢沢頼綱。
父・矢沢頼綱は一時期、岩櫃城代・沼田城代を勤めた程の真田家にあっては信頼置ける一門衆であった。
父・矢沢頼綱の正室は根井清雲の娘だが、矢沢頼康の母であるかは不明であるが、可能性は高いか? 矢沢但馬守頼康の通称は三十郎。矢沢頼幸ともいう。
真田昌幸の代となると筆頭家老として真田家を支えた。
1585年、真田昌幸の子・真田幸村(真田信繁)が、上杉景勝へ人質に出された際には、警護として同行している。
同年1585年8月、徳川家康が鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000にて上田城の真田昌幸を攻撃させた第1次上田城の戦いでは、上杉景勝からの援軍と共に矢沢城(矢沢頼綱の本拠地)に800で篭った。
矢沢城は上田城から約6km東に位置し、支城の役割を持っており、1500の依田源七郎らを退け、徳川勢が敗走した際の追撃戦では、神川にて大久保忠世らを蹴散らしたと言う。
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のち徳川家が天下を取った際、大久保甚右衛門が上田藩主・真田信之に話をしたエピソードがある。
「神川合戦のとき、殿のそれがしを追いかけられたのが真田さまでしたか。あのときは大長刀を振りまわす風音がすぐ耳元に迫って身もすくむ思いでした。 それがしの乗馬は日頃から実に速い馬ですが、あのときばかりは、それがしと一緒に躍り上るようで……苦労しましたよ。」 と。
しかし、真田信之は「いやそれは私ではなく家臣の矢沢但馬守である。 元来私は追撃戦は下手なのです。そんな見事な追撃を見せたのは、但馬守に間違い無い。」 と返したと言う。
ただし、上田合戦のときには、海津城にいた可能性があると言う指摘も存在する。
このように父・矢沢頼康に従い、各地で戦功を挙げていたが、この年を境に父・矢沢頼綱の活動はあまり見られなくなり、書状でも父と連署したものは、この年が最初で最後になっている為、家督を継いだと考えられる。
関ヶ原の戦いのあとでは、真田家当主となった真田信之に仕え、大坂の役では真田信之の代わりに出陣した子である真田信政・真田信吉らを補佐し、大阪城に入った真田幸村と敵対した。
出陣にあたって、真田信之は矢沢頼康に「何事も油断なく、間に入って頼み入り候」と書き送っている。
1620年に死去。享年68。
矢沢頼康に子はなかったが、弟の矢沢頼邦が跡を継ぎ、その後、子孫は代々、松代藩にて無役席(家老職より上の別格扱い)として1400石を知行し、実質家臣のNo1として真田家を支えた。
矢沢頼邦
矢沢頼邦は1557年生まれとされる矢沢頼綱の子であり、矢沢頼康の弟とされる。
吾妻衆の山田家の養子となり、山田与惣兵衛と称していたようだが、矢沢家に復帰して3代目矢沢家を相続したと考えられる。
矢沢頼邦の子は矢沢頼貞(4代)で、さらに矢沢頼貞の子としては、矢沢頼永、矢沢頼次、矢沢頼誠の3人がいる。
家督継承の矢沢頼永(5代)には嫡子がなかったため、2男・矢沢頼次(6代)の子・矢沢頼豊(7代)と繋がっており、その後、3男・矢沢頼誠の子・矢沢頼重(8代)へと続き、代々真田家の家老を務めた。
現在は、17代・矢沢頼忠氏。
下記は松代城下にある矢沢家の表門(長屋門)です。
下記の地図ポイント地点となります。
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