足利義晴の解説 何度も京都を追われながらも危機を乗り越えた不屈の将軍

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足利義晴

足利義晴の誕生から将軍就任まで

足利義晴(あしかが-よしはる)は永正8年(1511年)室町幕府11代将軍・足利義澄の子として生まれます。
幼名は亀王丸と言いました。
当時京都では明応の政変にて廃立された10代将軍足利義稙が将軍に復帰しており、前将軍となった父義澄は京都を追われ近江に動座していました。

このような情勢の中誕生した義晴ですが、出生後すぐに義澄が病没してしまい幼少期は播磨の赤松義村のもとで育てられます。
その後永正10年(1513年)2月に義稙と和睦した義晴は上洛を果たし、義稙の養子になったとされています。


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しかし永正18年(1521年)3月義稙が管領細川高国との対立から京都を出奔すると義晴は高国により将軍に擁立され元服、同年12月12代将軍の宣下を受けます。
こうして11歳にて将軍となった義晴は高国や側近たちの後見のもと義晴・高国政権の運営を開始します。
このとき幼い義晴を支えた側近のなかには9代将軍足利義尚に仕えた大舘常興や佐古局などが見られます。

堺公方との戦い

この時代の足利将軍家は十分な直轄領や直属軍を持っていなかったため、安定的な政権運営を行うには細川高国のような有力大名との連携が不可欠でした。
そのため足利義晴は必然的に連携する有力大名たちの問題に巻き込まれることになります。

大永6年(1526年)細川高国が家臣香西元盛を殺害したことにより高国を当主とする細川京兆家に混乱が起こります。
そしてこれに乗じた三好元長らが細川一族である細川晴元を擁立し挙兵、高国方である義晴の対抗策としては義晴とおなじく義澄の子である足利義維を擁立します。
この義晴と義維の兄弟関係は資料により異なり不明で、義維は幼少期に阿波細川家で育てられていました。

そして大永7年(1527年)2月桂川の戦いにて晴元・元長方が勝利したことにより義晴は高国とともに近江の六角定頼のもとへ逃れます。
その後同年10月に義晴は上洛を果たしますが、享禄元年(1528年)5月に高国が敗走したことにより再び近江へ逃れ、その後は数年にわたり近江に滞在します。


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この近江への動座には義維方へ離反するものも現れますが、多くの家臣はそのまま義晴と同行。
対する義維は大永7年7月将軍後嗣を象徴する左馬頭に任官され次期将軍候補となります。

このように現職の将軍が数年にわたり京都を追われ地方に動座するのは異例であり、晴元・元長方は堺にて義維を中心とした堺政権を樹立させ義維は堺公方と呼ばれるようになります。
そして享禄4年(1531年)6月には大物崩れにて高国は自害してしまいます。

近江の足利義晴

近江にて動座した足利義晴は自らを現職の将軍としてアピールするため地方の諸大名たちと連絡を取り合い、政務を積極的に行います。
また義晴は京都への贈答や音信を同地から欠かさず行っており、大永から享禄への年号改元の費用も義晴が負担して武家執奏により行い、天文への改元も義晴が行っています。

このような活動から義晴は朝廷から支持を得ていたと考えられ、享禄3年(1530年)正月には参議兼左近衛中将から権大納言に昇進、これは朝廷より義晴の帰洛を強く促したものでした。
そして天文元年(1532年)には朝廷と協力し桑実寺縁起絵巻の制作を開始しています。

一方、京都支配を行っていた細川晴元・三好元長方の堺政権は御内書の数などからも現役の将軍である義晴に権威が劣っており、朝廷との関係も義維が一度も上洛をしなかったため支持を得られていませんでした。
しかも晴元・元長方ではその後内部抗争が起こり、天文元年6月には元長が晴元らによって討ち取られ同年10月に義維は堺を出奔、堺政権は崩壊してしまいます。

細川晴元との和睦

その後、明確な時期は不明ですが足利義晴と細川晴元は和解、天文3年(1534年)9月には義晴が上洛し、天文5年(1536年)9月には晴元が上洛して義晴・晴元政権が開始されます。
しかし、晴元は家中の権力争いなどで領国が不安定になることが多く、義晴は晴元の戦況により度々京都を離れ近江に動座します。

足利義晴の幕府運営

足利義晴は自身の御前沙汰運営における内談衆を組織します。
この内談衆は義晴が天文5年(1536年)8月に生まれたばかりの嫡男足利義輝に将軍職を譲ろうとした際、義輝に代わって政務を行う年寄衆を組織しておりこの年寄衆の構成員から内談衆は組織されています。
その後義晴は引退を取りやめますが、これにより幕府内の組織が一極集中化し内談衆さらには義晴へ権力が集中します。


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また義晴は正室を摂関家の近衛家から迎えることによって自身の生母がほぼ無名で外戚の援助が得られない状態から脱却を目指しました。
そして義晴正室の慶寿院が日野富子以来の男子を設けたことにより、義晴は近衛家との関係を一層密接にすることに成功します。

そして義晴は諸大名に対し偏諱や栄典、官途、役職を積極的に授与します。
この政策は本来なら対象とならない国衆たちにも与えられていることが義晴期の特徴であり、これは義晴による新たな諸大名の統制方法でした。
当時の権力者たちは領地支配の名分として家格の上昇や地域支配の役職を積極的に求めるようになっており、義晴としても自らの求心力の上昇や礼銭進上という経済的な利点から、両者は互いに利益がある関係を築いていました。

足利義輝への将軍職移譲

天文12年(1543年)細川氏綱が細川晴元に対して挙兵、天文15年(1546年)頃になると戦況が激しくなり晴元は劣勢に追いやられ丹波へ逃れます。
そしてこの戦況の中同年9月に足利義晴は晴元を見限り、氏綱方と接触を開始します。

また同年12月、義晴は自身の先例に基づき11歳になった嫡男足利義輝を元服させて将軍職を譲り自らは大御所になります。
そして本来ならば義輝の加冠役には管領がなるところでしたが当時管領は空席で、また晴元とは関係が悪化していたため義晴は加冠役に六角定頼を指名します。
定頼は以前から晴元と同様に義晴政権を支えていた有力者で、義晴は晴元より定頼との関係強化を進めたかったと考えられています。


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またこのとき義晴は朝廷から右近衛大将に推認されており、これは朝廷が今後も義晴に洛中の警護を希望したことが前提にあり義晴の引退を引き留めるものでした。

その後氏綱方への味方を表明した義晴でしたが、天文16年(1547年)になると晴元方が徐々に戦況を挽回させ、7月には義晴が籠る北白川城を晴元と定頼に攻められ義晴は定頼の仲介のもと晴元と和睦します。
このとき定頼は義輝の加冠役でもあり晴元を娘婿としていた関係から両陣営の板挟みにあっており、この状況を打破するため義晴に無理矢理晴元との和睦を強要したと言われています。

足利義晴の死

こうして再び足利義晴・細川晴元政権が復活しますが、今度は三好家の内紛から晴元と三好長慶が対立、長慶は細川氏綱と手を結びます。
このとき義晴は晴元に味方しますが天文18年(1549年)6月江口合戦での長慶方の勝利により京都から近江へ動座。
この動座の際には義晴の義兄である近衛稙家ら近衛一族や晴元などの細川一族も同行します。


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そして同年末より義晴は水腫張満という症状に悩まされます。
この治療のため京都から名医を招いたりしますが天文19年(1549年)にもなっても回復せず、それでも同年2月には京都奪還のため山城に中尾城の築城を開始、自身も病身のまま穴太まで進軍しますが同年5月4日に死去します。(享年40歳)
この義晴の死には近侍していた進士晴舎が、若年の将軍を擁することへの不安を書状に記しており家臣たちに動揺が走っていたことが分かります。
また書状には義晴が自害したと見れる表現があり、晴舎は実際当時に同行していた人物のためその記述は事実だとも考えられています。

(寄稿)kawai

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