連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第24回 「井伊直平墓碑文」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、井伊20代直平(なおひら)の墓石に彫られた「井伊直平墓碑文」です。

井伊直平は井伊直虎の曽祖父です。

井伊直平は、今川氏真の命令で、今川方から武田方に寝返った天野氏を社山城(静岡県磐田市社山)で討つために出陣したものの、有玉畑屋村(現在の静岡県浜松市東区有玉南町)で落馬して亡くなったそうです。享年75とも85とも言われています。戦国時代の武士は、60歳まで参戦していたそうですので、もう15年以上、戦ったことはなかったことでしょう。このため、死因は、老化(体力低下)による落馬とされていますが、テトロドトキシン(フグ毒)による毒殺や天野軍の急襲説もあります。

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ちなみに、『井伊直平公一代記』では、「(駿府に出火の釈明に行き)夫ゟ直平遠州江歸國之所、同國八条山ニ甲州家之大将・天野南左衛門尉、數千騎ニて楯籠故、直平二千余騎ヲ率之八条山江出陣(中略)出立之時節、家老飯尾豊前守則重(のりシケ)妻、直平公江茶越進上申候。右之茶召上られ御出陣被成候處、先手ハ既尓倉中瀬迄参り候處、有玉之旗屋宿ニて豊前守ヵ妻進上申候茶ニ毒阿り、惣身すくミ落馬則毒死春。永禄六年九月十八日なり」と、飯尾豊前守則重の妻による毒殺だとしています。

 

<写真1:山城マニアには人気の社山城>

死因もはっきりしませんが、さらに不思議なのは、井伊直平の遺体が亡くなった場所に埋められたわけでも、井伊谷の龍潭寺で荼毘に付されたわけでもなく、川名に運ばれて埋められたことです。

この理由については、

①川名は遺体を運んだ大石作左衛門の故郷だから

②井伊直平の母親は川名の大石氏だから(川名は井伊直平の生まれ故郷だから)

③川名の伝承:井伊直平の屋敷城があったから

など、諸説あります。

 

遠江井伊氏の歴史を語るポイントは、
①平安時代:初代・井伊共保の井中出生譚
②鎌倉時代:御家人「井之介」(「日本八介」の1人)として活躍
③南北朝時代:宗良親王を擁して南朝(吉野朝)方
④戦国時代:井伊谷井伊氏(直平─直宗─直盛─直親─直政)
の4点だと思います。

ところが、遠江井伊氏研究のバイブル的存在である『井伊家伝記』は、井伊共保出生の井の話をした後で、突然、井伊直平の話に移り、鎌倉時代と南北朝時代の遠江井伊氏について触れていません。これは、『井伊家伝記』の執筆理由が、①井伊共保出生の井は正楽寺の物ではなく、龍潭寺の物であることの主張と、②龍潭寺(井伊直平が建てた龍泰寺)は彦根井伊家と深い関係にあることの主張の2点だからでしょう。しかし、私が知りたいのは、

──井伊共保と井伊直平の関係

なのです。

「井伊初代共保は、井伊谷八幡宮の井戸から生まれ、井伊20代直平は、その井伊谷八幡宮を遷座して、井伊谷八幡宮があった場所に龍泰寺(後に龍潭寺と改名)を建てた」と聞かされると、「井伊家は、万世一系の家で、ずっと井伊谷に住んでいた」と思い込んでしまいますが、本当にそうなのでしょうか?

──馬鹿の考え休むに似たり。まずは、川名へ。

 

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<写真2:伊豆神社(左)と福満寺八日堂(右)>

川名では、「川名のひよんどり」(毎年1月4日の18:00~22:00)の準備中でした。

「ひよんどり」は「火踊り」の転訛で、「八日堂」の名が示すように、1月8日に行われていましたが、大人の事情により、昭和40年(1965年)からは、(1月1日の?)シシウチ神事・マトウチ神事と合わせて、1月4日に行うようになったそうです。

 

<写真3:「川名のひよんどり」現地案内板>

 

ひよんどりが行われる夜、二人揃って薬師如来坐像にお参りし、お堂で結婚を願うと、(反対していた親が許してくれるなど、奇跡が起こって)必ず結ばれるそうで、これを「堂約束」といいます。相手がいないとできない・・・(T_T)

さて、福満寺八日堂(薬師堂)には、福満寺のご本尊である「薬師如来坐像」があります。

 

<写真4:薬師如来坐像(右)と負け不動尊(左)>

 

「○八日堂(川名)福満寺薬師堂…真言宗。伝承では、前の御堂を消失したので、応永年中(一三九四~一四二九)に、大檀那の井伊直貞が再建したという。現本尊阿弥陀坐像(なぜか薬師如来像ではない)の蓮台に「応永三十三丙午霜月十五日 大檀那藤原朝臣直貞 仏師式部法権順教」と、共に八人の村人施主名も記されてある。」(八木洋行『湖の雄井伊氏』(静岡県文化財団)p.164。「消失」は「焼失」の誤りか。)

「川名の福満寺の本尊薬師如来像(『湖の雄』では阿弥陀如来とされる一六四頁)の蓮台部分には、応永三十三年霜月十五日に薬師像を造立した大檀那として「藤原朝臣直貞」の名が見える。直貞は居点を渋川に置きながら、川名にも影響を及ぼすことができる人物だったのである。応永期において、渋川井伊氏の威勢は他の井伊氏一族を凌駕していたのであろう。」(大石泰史『井伊氏サバイバル五〇〇年』(星海社)pp.90-91 「居点」は「拠点」の誤りか。)

 

<写真5:「薬師如来」現地案内板>

「御本尊は薬師如来です 薬師様は、その名のとおり衆生の病苦や無明の病(迷い)を癒し、安楽を与える仏とされております。そのため左手には薬壷を持っています。」(現地案内板)

阿弥陀如来と間違える方が多いのか、「薬師如来」と太く大きく書かれ、薬師如来である理由は、「薬壷を持っている事」としています。

さて、「藤原朝臣直貞」の墨書を見たい、撮りたいと思ったのですが、見当たりません。後部に書かれているのでしょうか?(後日譚:墨書は、修復作業で見つかった胎内銘で、外部からは見えないとのこと。)

ちなみに、平成16年に修復作業をしたことにより、新しい仏像のように見えてしまう「負け不動尊」とは、川名と滝沢の境界は沢(渓流)であったが、その沢を越えて滝沢の人々が田畑を作り始めたので、闘いになったが、川名の人々が負け、その時に持ち帰った不動尊だそうです。想像するに、その沢に小さな滝があり、「不動の滝」と名付けて、川名の人々が不動尊を祀っていたが、滝沢の領地になったので、不動尊を持ち帰ったってところでしょうか。

隣の「伊豆神社」のご祭神は「伊豆権現」(伊豆から下駄を履いて飛んできた権現様)でしたが、現在のご祭神は瓊瓊杵尊で、宮司は宮田信裕さんです。「下駄を履いて空を飛ぶ」といえば、天狗(修験者)であり、伊豆は役行者の配流先ですね。

さて、改めて「福満寺薬師堂」の案内板を見てみました。

 

<写真6:「福満寺薬師堂」現地案内板>

「福満寺は、現在は薬師堂だけが残されていますが、かつては12の塔頭をかかえる大寺院だったと伝わります。応永のころ焼失し、渋川井伊氏の直貞が応永33年(1426)に再建しました。近隣の東福寺も現在は小さなお堂が残るのみですが、元は坊のひとつだったと考えられます。」

 

福満寺は、行基作薬師如来像を本尊として、奈良時代に創建されたと伝えられています。焼失したので、藤原直貞が、新たに薬師如来像を作らせ、福満寺を再建したそうです。この藤原直貞は、渋川に住んでいた井伊次郎太郎直貞(井伊泰直の長男が井伊太郎行直で、次男(直貞の父。上野氏(渋川井伊氏)の祖)が井伊次郎直助。その次郎の長男(太郎)であるから、「次郎太郎」)のことです。この頃の遠江井伊氏は、本家(井伊谷井伊氏)よりも、上野から移住した渋川井伊氏や、赤佐から移住した奥山氏といった庶子家の方が威勢が良かったようで、川名も渋川井伊氏が領していたようです。

井伊氏の系図を見ると、初代共保から数代は「共■」という名ですが、「■直」に変わり、「直■」に変わります。一説に、井伊家宗家(「■直」を名乗る嫡流の太郎家)は、今川了俊と共に九州の南朝軍の征伐に向かい、九州で絶えたので、井伊領は「直■」を名乗る傍流の次郎家が宗家となって支配したといいます。井伊谷井伊氏(直平─直宗─直盛─直親─直政)は、「直■」と名乗っていますから、井伊家宗家よりも、井伊直貞ら渋川井伊氏に近い存在ではないのか? それで井伊直平の菩提寺や墓が渋川井伊氏の領地にあるのではないか?

そんなことを考えながら、井伊直平の菩提寺「渓雲寺」へ。

 

<写真7:清水山渓雲寺>

 

渓雲寺は、玉泉庵(福満寺の塔頭とも)の奥寺でしたが、井伊直平の菩提寺になると、井伊直平の戒名「渓雲院殿西月顕祖大居士」から渓雲寺と改名しました。

菩提寺ですので、ご位牌はありますが、お墓はありません。井伊直平のお墓は向山にあります。

 

<写真8:鐘楼跡(渓雲寺)>

 

次郎法師(後の井伊直虎)は、福満寺に梵鐘を寄進していますが、武田軍が攻めてきて福満寺や玉泉庵を焼いた時に、熱で変形してしまったようです。それで、溶かして作り直し、(まだ再建されていない福満寺ではなく、井伊直平の菩提寺であったために早く再建された)渓雲寺に設置されたとのことです。しかし、太平洋戦争の金属供出令により失われ、鐘楼だけがありましたが、その鐘楼も今は、上の写真のように解体されました。

 

そうそう、武田軍に襲われたと聞いて、「寺社だけではなく、民家も焼かれたんだろうな」と思いましたが、「お御手洗の井戸」の案内板によると、民家は焼かれなかったようです。

 

<写真9:「おみたらしの井戸」>

<写真10:「おみたらしの井戸」現地案内板>

 

「三方原合戦のころ、武田軍が川名の里に来たとき目を悪くして困っていた。村人が病を治す力のあるお薬師様にお願いしたところ、この泉で目を洗えとお告げがありました。洗ったところ目が治り、おかげで川名の里は火を付けられずにすんだという伝説である。」(「おみたらしの井戸」現地案内板)

 

そもそも、武田軍は、井平(現在の表記は「伊平」)から井伊谷に進軍していて、川名を襲うのは大きな寄り道となることから、「武田軍は川名に来なかった」と主張される方もおられます。(逆に、川名から井伊谷へ進軍したとお考えの方もおられます。)福満寺、玉泉庵、伊豆神社などが焼失し、次郎法師が寄進した鐘が焼けたのは、武田軍による放火ではなく、寛文元年(1661年)の火事であり、鐘の再鋳造は、その27年後の貞享5年(1688年)のことだそうです。

 

さあ、井伊直平のお墓に向かいましょう。

川名川に橋が架けられていました。

 

<写真11:鎧橋>

 

ここで井伊直平の鎧を脱がせ、川の水で体を綺麗にしたので、「鎧橋」と名付けられました。

井伊直平の意識は朦朧としていたものの、井伊直平は生きていて、この橋の上で落馬して亡くなったとか、複数いた側室の内の1人(引間城主・飯尾連龍の妹か姉)がこの橋で殉死したとか伝えられています。

 

<写真12:川の合流点>

 

鎧橋を渡って少し歩くと、川の合流点(四つ角)があります。この谷川(渓谷)の上にかかる雲が「渓雲」かな。真っ直ぐ南へ進めば三岳山の山頂、右(西)へ曲がって山(西山)を登れば井伊直平のお墓、左(東)に曲がれば「獅子射ち会場」(六所神社)です。

シシウチ神事は、静岡県では滝沢と川名でしか行われていない珍しい神事だというので、井伊直平のお墓に参る前に見ておくことにしました。

 

<写真13:社殿と人工の磐座。典型的な「川合社」のパターン>

<写真14:人工の磐座>

<写真15:六所神社の社殿>

旧・引佐郡には、六所神社が10社以上ありますが、この六所神社以外のご祭神は、住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)と綿津見三神(底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神)の6柱ですが、この六所神社のご祭神は、「天照大神外5柱」で、その5柱はどなたであるか分からないそうです。(伊豆神社のご祭神の瓊瓊杵尊(天照大神の孫神)とか、猿田彦命(天狗の祖)とかかしら?)いずれにせよ、六所神社(通称:西の宮)は、川名で最も古い神社であるので、ひよんどりの前に神事を行うのだそうです。

<写真16:神事の始まり>

普通の神事は、正装した宮司さんが祝詞をあげる事から始まると思うのですが、宮司さんは、終始無言です。伊豆神社の宮司さんが着ておられるのは、白い着物の上に、福満寺の寺紋(○に「井」の字)付きの黒い羽織です。神道・仏教混合かい!?

 

<写真17:磐座の役行者像>

 

次に、磐座の役行者像に神饌(強飯)を3つに分けて供えます。神道・修験道混合かい!?

 

<写真18:シシウチ神事>

 

民俗学では、弓を射る神事を「弓射神事」「歩射神事」(上賀茂神社では「武射神事」)、「シシ」(「獅子(ライオン)」ではなく、猪や鹿のこと)を射る神事を「模造獣狩猟儀礼」と呼んでいます。ここでは、猪(模造獣)を「今年も田畑を荒らすなよ」と願って射ます。この時、呪文「弓矢ヒョウヒョウ、胡麻はサラサラ、お手に止まりてお鷹ユラユラ」を唱和します。物部神道かい!?

 

<写真19:マトウチ神事>

 

「マトウチ神事」に使う的は、正方形の木に黒い丸を描いたものではなく、縦3本、横3本の板で作ります。神道・陰陽道(セーマン)混合かい!?

 

<写真20:直会(なおらい)>

 

直会(神饌を参加者(見学者を含む)全員で食べること)で終了。

 

さて、本題の「井伊直平墓碑文」です。

井伊直平の墓は、殉死した大石作左衛門の後裔の墓がある川名共同墓地の北側の「向山」にぽつんとあります。

──なぜここに?

川名の伝承では、「ここに井伊直平の屋敷城があったから」だそうです。であるとすれば、考えられるのは、

①ここに渋川井伊氏の川名支店のような屋敷城があり、井伊直平はここで生まれた。(井伊直平は渋川井伊氏で、母親は川名の大石氏。)

②井伊直平は、井伊谷井伊氏であるが、今川氏との戦いに敗れて井伊谷を占領されたので、川名に屋敷城を建てて潜伏していた。

③井伊直平は、井伊谷井伊氏であるが、嫡男に家督を譲ると、川名に屋敷城を建てて隠居生活を送っていた。

といったところでしょうか。

<写真21:井伊直平墓石(正面)>

渓雲院殿前遠國司西月顕祖大居士覺儀

 

<写真22:井伊直平墓石(右側面)>

點眼偈
憶昔星隕幡谷里 到今士庶叫蒼天
渓雲漸霽西山月 遠顕祖光輝萬年

<写真23:井伊直平墓石(裏面)>

 

井伊共保公十三代遠江守直平公行年八十五永禄六亥九月十八日出陣於八社山而俄於于有玉□□谷薨去矣時従者神主屋舗作左衛門竊負来□川名村而営辨葬儀導師渓雲寺二世梅嶽春和尚也今玆十四世一道喝座元告官蒙命再奉修造幽宮者也
奥山積翠軒龍水謹書
※「有玉□□(波多。はた)谷」「□(此)川名村」か。

 

<写真11:井伊直平墓石(左側面)>

永禄癸亥九月十八日逝

地衣類が生えていて、拓本でないと読めませんね。

では、「井伊直平墓碑文」を読んでみましょう。

【読み下し文】

「渓雲院殿前遠國司西月顕祖大居士」覚儀
點眼の偈
昔を憶(おも)ふに、星隕(お)つ、幡谷(はたや)の里
今に到りて、士庶(ししょ)蒼天(そうてん)に叫ぶ
渓雲(けいうん)漸(ようや)く霽(は)れる西山(せいざん)の月
遠顕祖(えんけんそ)の光輝(こうき)は万年

井伊共保公十三代、遠江守直平公、行年八十五。永禄六癸亥九月十八日、社山(八城山)に於いて出陣す。而して俄に有玉波多谷(旗屋、畑屋)に於いて、薨去す。時に従者・神主屋舗作左衛門は、竊かに負ひて、此、川名村に来たり。而して葬儀を営辨す。導師は渓雲寺二世梅嶽春和尚なり。今玆に、十四世一道、座元を喝し、官蒙を告げ、再奉を命じ、幽宮を修造せし者なり。
奥山積翠軒龍水、謹みて書す。
永禄6年9月18日逝く。

【解説】

・渓雲院殿前遠國司西月顕祖大居士覚儀:「江」が抜けている。井伊直平の受領名は「信濃守」であったが、井伊直盛が「信濃守」と名乗ったので、「遠江守」に変えている。ご位牌なら「尊儀」。

・点眼:「大仏開眼」の「開眼」は、「開光点眼」の略である。ここでは、「新しい墓石の披露にあたって」程度の意味かと思われる。

・偈:個人の徳を称える四句の詩。井伊直平の戒名「渓雲院殿前遠江守西月顕祖大居士」を順に巧みに織り込んで詠んでいる。

・星隕つ:「将星隕つ」とは、蜀の諸葛孔明が五丈原で死んだ時、大星が陣中に落ちたという故事(「蜀書」諸葛亮伝)から、将軍が陣中で死ぬこと。ここでは、天野討伐軍の大将の井伊直平が陣中で死んだこと。

・渓雲:渓谷の上の雲。戒名「渓雲院殿西月顕祖大居士」による。

・西山の月:戒名「渓雲院殿西月顕祖大居士」による。井伊直平のお墓は、川名では「西月さま」と呼ばれている。

・遠顕祖:「遠祖」は遠い先祖。「遠江守」の「遠」とかける。「顕祖」は「先祖」の美称。戒名「渓雲院殿西月顕祖大居士」による。

・幽宮:神霊が人前に示現することなく永久に鎮まる宮。ここでは墓のこと。

【未来のお気軽訳】 井伊直平墓碑文

「渓雲院殿前遠江国守西月顕祖大居士」の墓

建立にあたっての偈
その昔、「諸葛孔明が五丈原で死んだ時に大星が陣に落ちた」というが、有玉幡谷(ありたまはたや)の里の陣でも同じ事が起きた。
それから今に至り、武士も庶民も、(井伊直平の死が悲しくて)空に向かって泣き叫んでいる。
谷を覆っていた雲が漸く晴れて、西の山にかかる月が顔を出した。
素晴らしい遠祖(井伊直平)の名声は、(あの西の月のように)何万年も光り輝き続けるであろう。

井伊共保公から数えて13代(「彦根系図」では20代)、受領名「遠江守」、井伊直平公は、85歳で亡くなられた。永禄6年(1563年)9月18日に社山城に向けて出陣し、突然、有玉畑屋村で薨去された。この時、従者であった大石作左衛門(神主屋敷の作左衛門)は、窃(ひそ)かに遺体を背負ってこの川名村に運び、葬儀を執り行った。導師(葬儀執行の中心となった僧)は、渓雲寺2世梅嶽春和尚であった。現住の渓雲寺14世一道和尚は、座元を「喝」と励まし、官蒙に告げて、再奉を命じ、幽宮(墓)を修造した者である。
奥山積翠軒龍水が謹んで碑文を書く。
永禄6年(1563年)9月18日逝去

(つづく)

 

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
第23回 「宗良親王御墓碑文」
戦国未来の連載シリーズ一覧
井伊直平と井伊直宗や井伊直満の関係とその生涯【井伊家】井伊直義と井伊直元も
井伊谷城と井殿の塚の訪問記~駐車場情報など【おんな城主・直虎】
大河ドラマで注目「龍潭寺」みどころと南渓瑞聞とは~井伊家発祥の井戸も

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