島津忠恒と鹿児島城(鶴丸城)~初代薩摩藩主・島津忠恒のその生涯は?


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鹿児島城(かごしまじょう)は「鶴丸城」(つるまるじょう)の名でも親しまれている薩摩の平山城です。
関ヶ原の戦いのあと、1601年に島津義弘の子である島津忠恒(島津家久)が築城開始しました。

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島津家久と言うと、沖田畷の戦い戸次川の戦いと島津家の躍進に大きく貢献した、島津一族の戦国武将がいますが、この島津忠恒はのち島津家久と称しますが、初代・薩摩藩主となった宗家の武将となります。

島津忠恒(しまづ-ただつね)は1576年11月7日に島津義弘の3男として生まれました。通称は島津又八郎。
母は園田実明の娘・実窓夫人です。

長兄の鶴寿丸は夭折、跡継ぎとなった次兄・島津久保は、1593年、朝鮮出兵で渡航しましたが、病によって21歳の若さで陣没した為、豊臣秀吉が島津家の後継者に島津又八郎(島津忠恒)を指名したと言われています。

島津忠恒の正室は、次兄・島津久保の未亡人である島津義久の娘・亀寿で、のち継室として島津忠清(島津備前守忠清)の娘をもらい受けています。

それまでは、酒と蹴鞠をする毎日だったようですが、豊臣秀吉は見抜いていたのでしょう。
跡取りに指名されると、優れた能力を発揮し、1598年、慶長の役では8000の軍勢で、4万の明軍を破りました。
明人・朝鮮人は「怕ろしのしまんず」と云ったと伝わります。

豊臣秀吉の死後、1599年には、対立していた家老の8万石の伊集院忠棟を、京都伏見の島津屋敷にて、自ら謀殺しました。
この頃、島津本家は10万石に過ぎなかったようで、伊集院忠棟は島津本家を脅かす勢力となっていたようです。
これを受けて、日向国庄内の本拠地・都城に立て籠もった伊集院忠真が庄内の乱を起こします。
伊集院家は、日本で初めて火縄銃を合戦で使用するという戦術にも優れた名家です。
また、島津忠恒の妹・御下(おした)が、伊集院忠真の正室でした。
そのため、1600年に徳川家康の仲介で一度和睦しますが、加藤清正、伊藤祐兵の支援を受けて再び背いたため、再度和解して油断させた上で、1602年、日向国の野尻での鷹狩りの最中に射殺し、島津家最大の内乱を鎮めました。
対外的には誤射をしてしまったという事で、実行犯の押川治右衛門と淵脇平馬は即刻切腹となっています。
もちろん、両名の遺族はのち高待遇で薩摩藩が迎えています。
なお、伊集院一族は、ことごとく粛清されましたが、千鶴という一人娘が、のち島津忠恒の養女として、松山藩主・松平定行の継室になっています。

ちなみに、1600年、関ヶ原の戦いにて、父・島津義弘は徳川家康に味方しようとしますが、伏見城の戦いでやむなく石田三成に味方します。
そして、関ヶ原の本戦でも、西軍に属していたため、島津家は存亡の危機を迎えていました。

この時、島津忠恒は、島津家当主・島津義久に代わって、徳川家康に謝罪のために上洛し交渉しました。
その結果、本領を安堵され、薩摩の内城に入ると、父・島津義弘と伯父・島津義久より家督を譲られて、島津忠恒が初代の薩摩藩主となっています。

それまで島津家は内城が本拠でしたが、島津忠恒は鶴丸城(鹿児島城)の築城を開始して、1604年までには移ったと言う事になります。

ただし、父・島津義弘や家臣の反対を押し切っての築城だったとされます。

なんでも、島津忠恒(島津家久)の趣味の部屋はあっても、風呂はなかったとされています。

もっとも、藩の実権は、父・島津義弘が亡くなる1619年まで握っていたようですので、思うようにはできなかったようです。

鶴丸城(鹿児島城)は、天守閣をもたない縄張りで、本丸と二の丸だけと、77万石の薩摩藩としては規模が小さな本城であり、極めて質素です。

しかし、背後に要害「城山」(上山城)が控えており、有事の際には詰めの城・天守替わりの見張り台としても活用できますが、それを含めても小さいですので、徳川幕府に恭順の意向を示したのかなと言う印象を受けます。

もっとも、薩摩藩は「外城制」と言う、領内の各地に山に支城を築いて、家臣らを配置していました。
外城(とじょう)の数は113城とも言われますが、1615年に一国一城令が出ても、薩摩藩は例外として、支城が認められています。

鶴丸城(鹿児島城)の本丸には、現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館が建っています。
二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などがありますので、遺構としては石垣と水堀くらいしか残されていません。

鶴丸城の「御楼門」(大手門)は復元しようと言う動きがあるようです。
私が訪問した際には既に工事が開始されていました。

4億5000万円を投じて、御楼門(大手門)を復元すると言う事ですが、その間、当然、門の周辺は立入禁止となっています。
工事は平成32年3月に終了する予定との事ですが、楽しみですね。

なお、鹿児島城は幕末の薩英戦争にて、錦江湾に侵入したイギリス軍艦から砲撃を受けました。
簡素な造りであった鹿児島城でしたので、敵は付近の寺が天守だと勘違いして砲撃したと言います。

さて、徳川家康との交渉をまとめて、見事、島津家を存続させた島津忠恒ですが、1606年に徳川家康から偏諱を受け、この時「島津家久」と改名しています。

1609年には、3000にて琉球を占領して属国とし、明とも密貿易も本格的に開始したようです。
1613年、奄美群島を琉球から割譲させ、代官や奉行所などを置いて薩摩藩の直轄地としました。

また、江戸幕府には妻子をいちはやく送って参勤交代の先駆けとして忠節を示し、1617年には将軍・徳川秀忠から、松平の姓名を与えられ、薩摩守に任官しています。

ただし、正室である亀寿(先代の当主・島津義久の娘)とは仲が悪かったこともあり、島津義久とは後継を巡って関係が悪化していたようです。

このように、ずっと島津義久に遠慮して側室もあまり持たなかったとされますが、1611年に島津義久が国分城にて死去したあとには、亀寿姫を追放して側室を新しく8人抱えています。
そのため、39歳から亡くなるまでの27年間に、33人の子供を設けており、それらの子を分家の家督相続に充てたり、重臣に養子として送ったり、あるいは妻とさせたりするなどし、島津忠恒(島津家久)は権力を強化しました。

正室だった島津亀寿は、1630年10月5日に国分城にて死去しましたが、毎日の食事にも困る生活だったようで、島津義弘が家臣に命じて援助をしました。
このような状態だったため、妻であった亀寿の墓は建立されていません。
現在ある亀寿姫の墓は、亀寿姫の祟りを恐れたと言う島津光久が建立したものだそうです。

1616年には、亡き島津義久が後継にと押していた垂水城主・島津信久を隠居に追い込みました。

なお、晩年の島津忠恒(島津家久)は、ご飯の食べ方もわからないくらい、おかしくなっていたようで、1638年2月23日死去。享年62。
殉死者は9名でした。

家督は次男・島津光久が継いでいます。

ちなみに、1615年の大坂の夏の陣にて、真田幸村のことを「日本一の兵(つわもの)」と称したのは、島津忠恒(島津家久)となります。
ただし、島津忠恒は、薩摩を発ったものの、大坂の陣には間に合わず、参戦出来ていません。
しかし、長曾我部盛親(長宗我部盛親)が捕えられて二条城にいた時には、雨の中、島津忠恒(島津家久)は馬を降りて、自分の笠を外し、長宗我部盛親に付けさせたと言います。

下記は鶴丸城(鹿児島城)の本丸跡です。

下記は鶴丸城周辺の観光マップですが、西郷どんに関する史跡も多いです。

鹿児島城・鶴丸城へのアクセスですが、有料駐車場は下記の地図ポイント地点となります。

ただし、鹿児島県歴史資料センター黎明館の有料入館をした場合に、駐車料金は無料になります。

裏山の上山城(城山)には、幕末の西南戦争の際に、西郷隆盛が最後の籠城をした場所としても知られ、鶴丸城とあわせてこの付近は鹿児島の観光スポットとなっています。
桜島の景観も見事でした。

西郷隆盛 【西郷吉之助】の波瀾な生涯が詳しく「まるっとわかる」詳細版
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