関戸城と鎌倉時代の霞ノ関「関戸の戦い」寺方大屋敷(佐伯屋敷)と有山屋敷も


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京都多摩市にある関戸城(せきどじょう)は、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅から徒歩15分の山城で、標高115m、比高50mとなります。

多摩川の南側にあり川崎街道、西は野猿街道、東は鎌倉街道、そして、多摩川の対岸は中河原・分倍河原とあり、かなりの交通の要所であることから「関戸」と呼ばれ宿場町として栄えていました。

関戸と言う事は、関(関所)があったと言う事ですが、その由縁は鎌倉幕府が関所「霞ノ関」を設けたことに始まります。
先にその霞ノ関からご紹介したいと存じます。

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霞ノ関

霞ノ関(かすみのせき)は、旧鎌倉街道(都道18号)を遮るように木戸柵が設けられていたようで、霞ノ関南木戸柵が発掘調査の結果、現在の熊野神社付近、霞ノ関北木戸柵が観音寺付近にあったと推定されており、下記の通り一部復元されております。

関戸城の東斜面の麓を通る旧鎌倉街道にあり、戦国時代の小田原・北条家の時代でも通行税を徴収していました。

戦国期には関戸城主となった霞之関の番人・佐伯氏の館があったとされ、小田原衆所領役帳では、飯田富永が関戸之内に50貫文を知行しています。
なお、松田憲秀の管轄であったころ、派遣されていた森岡氏が不正をして農民に訴えられ、逃亡したと言う逸話もあります。

その霞ノ関の物見台が背後の山頂に築かれて、のちに「関戸城」として改修されたと考えられています。

関戸の戦い

そんな関戸でもかつては合戦がありました。
鎌倉幕府が滅亡する直前の幕府軍と反乱軍との戦いです。
新田義貞上野・生品神社で挙兵すると、たちまち大軍へと膨れ上がり、鎌倉を目指します。
これに対し、鎌倉幕府は討伐軍として北条貞国・北条泰家・長崎高重らにて迎撃しますが、小手指原の戦い、久米川の戦いと敗戦続きでついに分倍河原の戦いとなります。
これらも勝利した新田義貞らの軍勢は、翌日の1333年5月16日には、更に鎌倉へ進軍するため多摩川を渡ります。
分倍河原で敗れ退却していた鎌倉幕府の北条泰家は、この関戸の霞ノ関周辺で体勢を整えて、防衛戦を展開したとされ、これが関戸の戦いと呼ばれます。

そのため、霞ノ関には、北条泰家の家臣・横溝八郎や、安保入道の父子の墓と伝わる塚も、民家の私有地内にあるそうです。
ちなみに、北条泰家は小山田城経由で鎌倉へ敗走し、この関戸の戦いの6日後となる1333年5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。
また、新田義貞布陣の跡などの伝承もあるそうですが、場所などは不明です。

関戸城

そんな関戸の霞ノ関西側にそびえる山が関戸城です。
関戸城はジブリの「耳をすませば」の舞台ともなったカーブの坂上の山となります。
山の上の南側には、例の「ロータリー」も存在します。

関戸城を示すものとして、現在は天守台(関戸城址)標柱があるのみですが、北側の郭とも言える金比羅社辺りも多摩川の展望が良い事から、使用されていた可能性があります。
ちなみに、金比羅社は小規模な神社ですが、自動のおみくじ機があり、100円を投入すると、神社風の音楽と共に「恋みくじ」が出てきます。

しかし、この周辺は住宅地開発で土地が改良されてしまっており、山城ではありますが、もはや城跡と呼べる遺構は皆無です。

1494年8月には、扇谷・上杉定正が山内・上杉顕実を攻めた際に「関戸の塁」を落としたと記されています。
その関戸の塁は、この関戸城だと考えられております。
城山や天守台と言う名称が地元で継承されたのには、江戸時代に入ってからそのように名付けられたものではないかと推定されているようです。
山城ではありますが、住宅地開発されており、城の遺構のような物は見当たりません。

また、大栗川の北麓には土豪・有山源右衛門の有山屋敷があったと言われております。

関戸城の天守台(関戸城址)標柱がある場所は、下記の地図ポイント地点となりますが、駐車場はありません。
バス通りに一時停車するのはマズイですが、脇道に入れば駐車禁止ではないので、短時間の停車は可能だと思います。

下記の地図ポイント地点は、関戸の戦い古戦場碑がある場所です。

下記の地図ポイント地点は、霞ノ関南木戸柵が復元されている場所です。関戸の史跡関係は、いずれも駐車場ありません。

有山屋敷

1532年~1555年頃に関戸宿が領地だった北条家・松田盛秀の家臣・有山源右衛門の屋敷が、現在の観蔵院の西側(大栗川の北側)にあったとされます。
標高53mですが、周辺よりちょっと丘になっているようで、比高は5m程です。
有山源右衛門の子である有山新右衛門の代で、有山家は途絶えたとされています。
聖蹟桜ヶ丘駅からも近い事もあり、現在は宅地化されており、遺構などは確認できません。

有山屋敷の場所とされるところは、下記の地図ポイント地点の付近ですが、特に史跡を示すものはありません。

寺方大屋敷

関戸城の近くの寺方大屋敷も一緒に掲載しておきます。
関戸城の西側で、山の上と言うよりは麓に使い丘稜にあります。
寿徳寺・山神社・観音堂のある谷戸の奥になっており、この地が「大屋敷」と呼ばれていました。

中世初期に土豪屋敷であると伝わりますが、具体的な武将名などは不明です。
なお、1569年に奥州にて討死した、北条家の家臣・佐伯道永(佐伯一助道永)の佐伯屋敷跡とも言われています。
寺方大屋敷の場所は下記の地図ポイント地点となります。

新田義貞とは~鎌倉を落とした男【新田義貞挙兵の地】
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