稲葉一通(いなば-かずみち)は豊後・臼杵藩の第2代藩主・稲葉典通の長男として誕生しました。
母は丹羽長秀の娘です。
もっとも、生まれたのは1587年6月13日と、豊臣秀吉が九州の覇者・島津義弘を降伏させて九州を平定したころとなります。
この時、父・稲葉典通は、豊臣秀吉の怒りをかい、伊勢の朝熊山に蟄居していますので、そんな状況の中で稲葉一通は生まれたことになります。
その後、父は謹慎を解かれて、1592年の朝鮮攻めにて豊臣秀勝の与力として活躍しています。
この辺りはの稲葉家復活は、稲葉典通の項目をご参照願えますと幸いです。
のち父・稲葉典通は、5万石で臼杵藩主となり、1626年に臼杵で死去しました。
そのあと、家督を継いだの、稲葉一通となります。
稲葉一通は、熊本藩主・加藤忠広が領地没収の改易となった際に、日出藩主・木下延俊と共に八代城の在番を務めたことが見られます。
なお、1641年8月16日、55歳で死去するまで、臼杵城の城下町の整備や開発を引き継ぎ、社寺の造営にも力を注ぎました。
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さて、そんな稲葉一通の正室は細川忠興の娘・多羅(たら)です。
多羅姫は、小倉城主・細川忠興と、正室だった細川ガラシャ(明智光秀公の娘)との間で、1588年生まれの娘です。
1602年に、この多羅姫を迎える為、臼杵城主・稲葉貞通と稲葉一通は「法音寺」を造営して、多羅姫(徳雲院殿)の菩提寺としました。
境内もとても綺麗にされている法音寺は、臼杵城からもほど近く、二王座歴史の道のところにあります。
法音寺にある「御霊屋」(おたまや)には、たら姫だけでなく、臼杵藩歴代となる稲葉家お姫様の位牌が祀られているそうです。
なお、法音寺の本堂から左手奥にある墓地の階段を登って、右の方角には御霊屋がありました。
この稲葉一通と多羅が産んだ嫡男・稲葉信通(いなば のぶみち)が跡を継ぎますが、この稲葉家の系譜は下記のとおり繋がりました。
稲葉知通─稲葉恒通─稲葉恒通の娘─勧修寺経逸─勧修寺ただ子─仁孝天皇─孝明天皇─明治天皇─大正天皇─昭和天皇─今上天皇(明仁)
さて、法音寺の場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。
うそです。ポイント地点は「御霊屋」がある場所を差していますが、その法音寺には東側から階段、もしくは南側から入れます。
道も狭く、駐車場はありませんので、城下町の市営駐車場などを利用してください。
・西美濃三人の稲葉一鉄とは~曽根城主の稲葉貞通と深芳野も
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