上泉信綱(かみいずみ-のぶつな)に関して、できる限りわかりやすく簡潔にその生涯を記載してみたいと存じます。
上泉伊勢守信綱は、上州(群馬)出身の戦国時代の兵法家・剣豪となります。
父は諸説あり、大胡武蔵守秀継とも、上泉武蔵守義綱ともあり、母は不詳です。
大胡城主の一族と考えられ、大胡城の桂萱郷・上泉を本拠とする上泉氏が出自で、上泉伊勢守秀綱(上泉信綱)は上泉城にて1508年に生まれたとされます。
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1555年には北条氏康が大胡城を攻撃し、この時、上泉城も降伏した模様です。
のち箕輪城主・長野業正(長野業政)の支配下となり、上泉城主・上泉信綱は長野家の家臣となったようです。
そして、上泉信綱は兵法を学びました。
愛洲移香斎(愛洲久忠)または、愛洲移香斎の子・元香斎小七郎から特に陰流を学ぶと発展させて「新陰流」(しんかげりゅう)を生み出します。
長野家16人の槍(長野十六槍)と称えられ、上野国一本槍の感謝状を長野業盛も受けています。
その長野業正(長野業政)が死去すると、1566年に武田信玄が箕輪城を陥落させ、子の長野業盛が自刃して長野家が滅亡しました。
この時、箕輪城の戦いで、上泉伊勢守の武勇を知った武田信玄は、再三にわたり家臣にと招請したとされます。
「信綱」の名は、武田信玄が「信」の字を与えたともされています。
しかし、上泉伊勢守秀綱(上泉伊勢守信綱)は、武田家からの仕官の話も断り、諸国放浪の人生を選びました。
疋田景兼、神後宗治、奥山公重、丸目長恵らの弟子と共に全国各地を巡り、新陰流を広めたとされます。
稽古と言えば「木刀」を使っていた時代でしたが、割った竹を束ねた竹刀(しない)の原型「袋竹刀」を開発し、ケガや事故防止に務めると言う功績もあります。
上洛する途中、伊勢では北畠具教を訪ね、奈良宝蔵院の宝蔵院胤栄と、柳生宗厳(柳生石舟斎)を試合で破ったとされます。
柳生宗厳は、上泉信綱の弟子・疋田景兼にすら勝てなかったため、未熟さを悟り、すぐに上泉信綱に弟子入りしたと言います。
このように弟子らは流派を派生させており、柳生宗厳が柳生新陰流、疋田景兼が伝えた新陰流は疋田陰流、丸目長恵が新陰流に工夫を加えたのがタイ捨流など複数の流派を輩出しました。
上泉信綱らは黒沢明監督の映画「七人の侍」のモデルになったともいわれています。
戦国の最強の剣豪として名高く、塚原卜伝と並んで剣聖と呼ばれた上泉伊勢守信綱の没年や最後の地も諸説あり、小田原にて亡くなった、大和で死去した、京都を離れ故郷で死去したなど様々あり、なぞも多い武将です。
一般的な没年は1577年とされます。
上泉伊勢守信綱の嫡男・上泉秀胤の子である上泉泰綱の子孫は、米沢藩士になっています。
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