山名氏豊(やまな-うじとよ)は守護大名となる伯耆守護・山名氏とされますが、父母は不詳で、誕生年も不明です。
山名氏はもともと上野国の新田一族で、足利尊氏に従って活躍すると、伯耆の守護となっていました。
最盛期には、因幡、伯耆、隠岐、丹波、丹後、但馬、美作の守護を兼ねており、日本全国の15%程度を領有していたと言う事になります。
「六文一殿」(ろくぶんのいちどの)と呼ばれるほどの隆盛を誇りましたが、応仁の乱となり、山名宗全の没後は領国支配も揺ぎ、没落して行ったのでした。
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この山名小三郎氏豊は、打吹城主・山名豊之の子孫と伝わりますが、尼子経久の圧迫を受けて、国を追われたか、逃亡先で生まれたか?と推定されているようです。
山名氏の多くは没落し、但馬・備後守護の山名祐豊だけが残りますが、この戦乱の中で、伯耆守護山名家は諸国に散ったようです。
伯耆民諺記・伯耆民談記では各地を流浪し、山名氏豊は毛利家に仕えたとの記述があります。
1562年頃には、諸国を転々とするも旧領を回復した羽衣石城主・南条宗勝と南条元続の客将となり、山名氏豊は馬ノ山砦を任されたともあります。
そして、山名氏豊は、伯耆・打吹城(うつぶきじょう)の城主に復帰したと考えられます。
重臣としては小林源蔵(四宮源蔵)の名も見受けられます。
やがて南条家は毛利家から離反して、尼子氏の遺臣・福山茲正の仲介で織田家になびきます。
その福山茲正が殺害されると、1579年に南条元続は、殺害した重臣の山田重直の堤城を攻撃し、山田重直と山田信直の父子を鹿野へと敗走させます。
豊臣秀吉が鳥取城を包囲した際には、羽衣石城にて毛利家の救援を妨害しました。
そして、毛利勢が南条家を攻めてきたため、1580年8月12日から13日にかけて長和田・長瀬川の戦い(長和田の十三日崩れ)となります。
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山名氏豊は、山名家の旧臣らと600騎を率いて羽合平野(田後)へ展開し、日下ヶ鼻で軍議を行いました。
8月13日の早朝、日下川を渡って、毛利勢の吉川元春軍である杉原盛重と戦うも、南条元続の弟・南条元秋が討ち死にするなどして南条家は敗走しました。、
山名氏豊は、因幡・鹿野城主である亀井茲矩を頼ろうとし、宇野坂から南谷村へと移動します。
山中を逃れ、舎人村から因幡の勝部谷へ入り、田原谷村の知人である百姓の家に匿ってもらうと、丁重なもてなしを受け一夜を明かしたとも言われています。
しかし、1580年8月15日、落人狩りをしていた地侍・長田肥前と福井興七郎らに鳴滝村付近(八葉寺村付近とも)にて発見され、山名氏豊は従者・四宮源蔵と共に討ち取られたと言います。
このように山名氏豊は、伯耆守護山名氏の最期の当主とされます。
ちなみに、その後、倉吉は毛利家の支配下となった模様です。
山名氏豊館があった場所は、現在の倉吉・大岳院の場所となります。
打吹城の北麓になりますが、平成4年に大岳院の本堂改築工事に伴って発掘調査が行われました。
しかし、室町時代以前の以降しか出なかったため、伯耆山名氏一族の居館跡とは推測されるも、戦国期に使われていたことまでは確認できなかったようです。
なお、大岳院はもともと、駿河・沼津城主である中村一栄(中村彦左衛門)と言う、中村一氏の弟の菩提寺でした。
大岳院の境内にある駒姫八幡は、山名氏豊とその娘の駒姫が祀られています。
その駒姫の娘が「おりんの方」(お林)で、第119代・光格天皇の生母となった大江磐代君の母との伝承があります。
ただし、安房・館山城主で倉吉3万石に流刑となった、里見義忠と殉死八臣の墓碑があるのが注目されます。
なお、古刹・大岳院の場所などに関しては、下記にて別途ご紹介しています。
・里見忠義と正木時茂 倉吉の大岳院~里見八犬伝発祥の地
・武田高信と武田助信とは~戦国初期の鳥取城主である因幡の武田氏
・山名豊国とは~没落し亡国の将で名門「山名氏」の生き残り
・吉川経家~自刃して果てる際の「首桶」を持参して鳥取城に籠城
・月山富田城の解説【日本100名城】尼子経久・尼子晴久・尼子義久
・中村一氏 秀吉に信任され対徳川家康の最前線を守った譜代の臣
・足利尊氏~人望で逆境に打ち勝った室町幕府の創始者~
・鳥取城と宮部長房とは~関ケ原合戦時の鳥取城の戦い
・里見忠義と正木時茂 倉吉の大岳院~里見八犬伝発祥の地
・山陰地方の史跡・城跡・観光名所へのカーナビにも便利な地図
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