武田高信と武田助信とは~戦国初期の鳥取城主である因幡の武田氏

鳥取城


鳥取城の歴史として、判明している戦国最初の頃の城主に因幡の武田氏である武田高信がいますので、調べてみました。

武田高信(たけだ-たかのぶ)は、武田国信の子として1529年?に生まれました。
母は不詳です。

因幡・武田氏は、甲斐の武田信玄と同じ甲斐源氏の流れで、因幡守護・山名氏の客将となると優遇され、のち家臣に組み込まれた模様です。



1545年に父・武田国信は自ら申し出で、家臣・田原某らに久松山城(鳥取城)を改修させ、鳥取城の城代となったともされます。
しかし、あまりに強固な山城であったことから、主君・山名誠通は謀叛の疑念を抱き、父・武田山城守国信を謀殺したともあります。

父亡きあと家督を継承したのが、武田三河守高信(武田刑部少輔高信)と言う事になります。

武田高信は鳥取城は諦めて、鵯尾城(ひよどりおじょう)を築城したようですが、やがて但馬の山名祐豊に内通し、主君・山名誠通(山名久通)を立見峠の戦いで討ったともあります。(次男の山名豊次が討たれたとも)
※とにかく山名氏や因幡・武田氏には諸説あり、正しいことはよくわかっていません。

因幡・山名家が衰退したことで、武田高信は鳥取城も奪取しますが、山名誠通の子である鹿野城主・山名豊成は、尼子晴久の後援を得て対立した模様です。
しかし、1561年、月山富田城主の尼子晴久が急死すると、毛利元就の支援を受けた武田高信は攻勢に出て、1563年、新守護・山名豊弘(山名祐豊の弟?)を擁立して挙兵し、山名豊成を毒殺します。

山名豊成の跡を継いだ山名豊数は鳥取城を攻撃したようですが、湯所口の戦いにて山名豊数の重臣・中村豊重を失い敗退。

山名豊数の守護館・布勢天神山城が攻撃されると、山名豊数は鹿野城に退去し、但馬の山名宗詮(山名祐豊)に協力を求めました。

1564年7月には、鹿野城を攻略し、武田高信は因幡を実質的に支配することに成功し、独立勢力となります。
しかし、一国を完全掌握するところまでには至っておらず、毛利家には従っていたようで、毛利勢として但馬や美作(みまさか)でも転戦します。
そして、因幡の有力国人の理解は得られず、尼子勝久・山中幸盛(山中鹿之助)ら尼子党に悩まされる事となります。
もっとも強敵となったのは、美作・矢筈城の草刈氏の存在でした。

1571年、山名豊国に通じた但馬・芦屋城主の塩冶高清(えんや-たかきよ)を攻めますが武田勢は大敗し、芦屋城の戦い(阿勢井城の戦い)にて嫡男・武田又太郎と次男・武田与十郎が討死した他、多くの家臣を失いました。
1572年には、小早川隆景の要請を受けて浦上宗景宇喜多直家らを牽制もし、毛利家の仲裁で草刈景継と和議を結んでいます。
1573年8月1日、甑山城まで進出した山中鹿之助(山中幸盛)の尼子党と戦いますが敗北。(鳥取のたのも崩れ・田の実崩れ)
そして、本拠地・鳥取城も尼子再興軍と山名豊国に攻撃されて落城し、武田高信は鵯尾城に退きました。

その後、山名豊国と但馬山名氏は、尼子氏から離れて毛利輝元と和睦したことから、敵対していた山名豊国もある意味「味方」となり、武田高信は毛利家に頼って山名豊国に対することができなくなりました。

1575年3月、ついに山名豊国は鵯尾城を攻撃したようで、但馬に逃れた武田高信は、かつて攻撃した芦屋城主・塩冶高清を頼り、毛利輝元に助けを求めました。
一方で、山名祐豊も武田高信の排除を吉川元春に求めたため、武田高信は隠居を迫られたか、自ら隠居して助命を請うたようで、1575年8月28日、子の武田徳充丸に家督を譲っています。

家督相続は毛利氏に認められましたが、小早川隆景に家臣2名を送って、再度、助命嘆願をするも明確な回答を得られませんでした。
そして、1576年5月4日、武田高信は不慮の死を遂げたとあります。

この死は謎が多く、織田信長に内通したとして山名豊国によって切腹させられた、山名豊国が武田高信を佐貫の大義寺におびき寄せて斬殺したとも言われていますが、よくわかっていません。
亡くなった年代も1573年~1578年と複数の説があり、3回くらい死んでいます。

跡を継いだ武田助信(たけだ-すけのぶ)は、父が亡くなったあと、重臣・西郷因幡守によって、高草郡松上村の松上社神主・大畠平左衛門の屋敷に半年ほど匿われています。
そのため、父・武田高信の死は本意ではなかったと言えるでしょう。


その後、武田助信は、事情を知った伯耆の南条元続に引き取られ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に謁見すると鹿野城番を命ぜられました。
また、1580年、は長和田・長瀬川の戦いでは、500余兵を率いて南条元続の軍勢として参戦しましたが、同じく鹿野城番であった亀井茲矩と対立していたようです。
そのため、図られて鹿野城から追放されると、毛利秀包の世話を受けて筑後・久留米に滞在しました。

関ケ原の戦いのあと、1601年に、但馬・村岡藩主となった山名豊国から200石で誘いを受けます。
父の仇でもある山名豊国に仕えることになった訳ですが、武田太郎右衛門と改名して長生きし、1646年に86歳で死去しています。
子孫は明治維新まで山名家の藩士として続きました。

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