聚楽第の落書き事件とは
戦国時代の1589年、何者かが夜陰に乗じて、聚楽第南外門にの白壁に落書きしたのが発見された事件。(落首事件)
落書きの内容は関白(豊臣秀吉)の政治を批判するものであったという。
一説には下記のような文章で落書きされていたと言う。
大仏の くどくもあれや やりかたな くぎかすがいは 子たからめぐむ」
との記述であるが、上記文章は後世の創作である可能性があり、実際にどのような落書きがされたのかは記録が無い。
いずれにせよ、当時、豊臣秀吉は方広寺の大仏を建立する名目で刀狩令を出して批判されており、このようにして京都東山に大仏殿を建築しようとしていた事や、側室を多数持ちながら長年、子供に恵まれて来なかったのに、突然、茶々(淀殿)が懐妊した事から、あざ笑うかのような内容であったとされる。
誹謗中傷が落書きされたのに対して、豊臣秀吉はまず警備を担当していた番人に怒りをぶつけた。
報告を受けて激怒した豊臣秀吉は、警備不行届きとして1589年2月25日の夜に、警備を担当していた17人の番衆の鼻を削ぎ、耳を切り落し磔にして処刑したのだ。
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この事件は3日後の2月28日に「多聞院日記」に記載されるなど、広く知れ渡ることとなった。
犯人捜しをした結果、尾藤道休(尾藤次郎右衛門入道道休)という人物が容疑者になった。
その者が本願寺内に逃げ込んだと言う事で、本願寺が犯人を匿っているという嫌疑を掛けることに。
当時、大坂天満本願寺に身を寄せていた山科言経の日記「言経卿記」には、石田三成と増田長盛らがやってきて、尾藤道休を匿ったとして本願寺に尾藤道休の引き渡しを迫り、本願寺顕如は翌日3月1日に尾藤道休と、匿った願得寺顕悟(けんご)の2名を自害させ、その首を豊臣秀吉に差し出したと言う。
これで幕引きかと思われたが、豊臣秀吉の怒りはまだ収まらず、尾藤道休と願得寺顕悟の住宅を取り潰し、2人を匿ったとして家があった町(区画)を焼き払い、3月19日には尾藤道休の妻子を含む、天満の町民63名が犯人隠匿の罪で捕えられて、無関係の者まで京都六条河原で磔にされた。
3月13日には、本願寺に対して寺内掟書が下され、秀吉勘気の牢人を隠匿しないこと、盗人悪党を糺明すること等を厳命した。
3月19日には検地が実施され、本願寺はすべてを飲み、1591年には京都へ移転した次第である。
また、この事件の黒幕として、斯波義銀と細川昭元が捕縛された。
推測すると、豊臣秀吉はこれら名族の人物の命をどうするかも自分の考え1つと言う実力者であることを示したかったものと推測できるが、当然無実の2人はすぐに許された。
しかし、細川昭元はまもなく病死し、斯波義銀は豊臣秀吉のお伽衆?となったものの以後の行動は不明である。
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1589年5月27日、豊臣秀吉の長男として、茶々(淀殿)が淀城にて、捨(鶴松)を産んだが、3歳にて亡くなっている。
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