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蘆名義広とは
戦国時代の天正14年(1586年)、蘆名氏当主であった蘆名亀王丸(あしな-かめおうまる)が夭折すると蘆名家は当主不在の状態となってしまいました。
しかし、そんな混乱の最中他家の介入により、新たな蘆名家当主が選ばれます。
そこで当主となったのは佐竹義重の次男、蘆名義広(あしな-よしひろ)でした。
今回は当主不在の混乱の中、蘆名家当主となった義広の生涯を紹介したいと思います。
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白河結城家へ養子入り
義広は天正3年(1575)に誕生します。
当時佐竹家は急速な勢力拡大をしたが故に、北条や蘆名といった近隣勢力から挟撃を受けていました。
そこで義広の父、佐竹義重はこの状況を打開すべく、義広を白河結城家へ養子に出します。
蘆名義広を養子縁組に出すことによって強固な同盟関係を結び、北条、蘆名による挟撃打破の足掛かりとしました。
蘆名家の弱体化が始まる
しかし天正12年(1584年)、蘆名家当主の蘆名盛隆が暗殺されると蘆名家は生後間もない蘆名亀王丸が当主となったので、徐々に弱体化していきました。
それでも佐竹家が亀王丸を支持し、敵対した伊達家に蘆名家と連合を組んで戦い、勝利します(人取り橋の戦い)。
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その後天正14年(1586年)、亀王丸が前述したように夭折すると、蘆名家や義広を取り巻く状況は大きく変わっていきました。
蘆名家20代目当主になる
亀王丸亡き後の蘆名家は当主不在となってしまったので、家中は伊達政宗の弟、伊達小次郎を推す伊達勢力と義広を推す佐竹勢力に分かれることになります。
他家を巻き込んだ後継者争いは佐竹勢力に与した金上盛備(かながみ-もりはる)の政略によって、天正15年(1587年)に義広が蘆名家20代目当主となりました。
盛備は「蘆名の執権」と呼ばれるくらい政治手腕に優れていたので、あらかじめ根回しをしていたと考えられます。
しかし、他家からの養子ということや義広自身がまだ12歳と若かったことや、佐竹家の家臣と蘆名家の家臣との間で今後の方針に関して衝突したことで、深い溝ができてしまったことが要因となり、家臣団を上手くまとめきれずにいました。
義広は蘆名家13代当主の蘆名盛高の玄孫であるから蘆名家の血は流れているのですが、血があまりにも遠すぎるためか、影響を与えることはできなかったと考えられます。
蘆名家の滅亡
この状況に好機と見た政宗は蘆名家に調略を行い続け、さらに蘆名家を弱体化させます。
そして、弱った蘆名家に拍車をかけるように政宗が総力戦を仕掛けます。
この動きに義広も総力を持って応じ、天正17年(1589年)に両者は摺上原(すりあげはら)で対峙しました(摺上原の戦い)。
この戦いの最初は蘆名軍が有利でしたが、伊達政宗の調略によって勝手に撤退をし始める武将や傍観を決め込む武将もいたため、次第に不利に。
蘆名義広は居城である黒川城を捨てて父がいる常陸へ撤退しました。
その後、会津・黒川城は伊達軍によって落とされ、これにより戦国大名としての蘆名家は滅亡しました。
蘆名家復興と秋田へ転封
しかし、豊臣秀吉の計らいによって義広は佐竹家家臣として佐竹家の領地付近に4万5000石を与えられ、蘆名家の再興を果たします。
この計らいとは天正15年(1587年)に秀吉が発した惣無事令を佐竹家は順守していたことへの恩賞だと思われます。
せっかく手に入れた領地でしたが、慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣(さたけ-よしのぶ)が西軍に味方したために領地没収と共に秋田へ転封処分となりました。
秋田では角館(かくのだて)に1万6,000石を与えられます。また水害や火災が多かったので、元和6年(1620年)に城下町を古城山の北側麓から南側麓へと移しました。
これが現代にも伝わる角館城下町の始まりとなっています。
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新たな城下町では道路の道幅を増やし、下水を整備すると共に火事対策もしっかり行った住みやすい配慮を施しました。
そして、義広は寛永8年(1631年)に病死し、57歳で幕を閉じました。
寄稿(拾丸)
・会津若松城(会津・黒川城)の歴史をわかりやすく解説【日本100名城】
・佐竹義重 毛虫の兜をかぶった常陸の猛将
・伊達政宗がよくわかる【詳細年表】~独眼竜・伊達政宗
・角館城 6歳で家督を継いだ戸沢道盛の復活劇
・その他、拾丸先生の記事一覧
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