シドッチの解説~鎖国下の日本に骨を埋めたイタリア人宣教師~

太田先生

戦国時代に伝来したキリスト教は、出島の外国人や隠れキリシタンと言った例外を除けば、江戸幕府による禁教令と島原の乱鎮圧によって抑え込まれたと一般には見られがちです。しかし、禁教と鎖国真っただ中の日本に上陸し、神の教えを説こうとした宣教師がいました。その宣教師こそ、本項の主人公であるシドッチです。

使命感に燃え、侍に化けて日本上陸を試みる

シドッチは1668年、イタリアのパレルモで貴族の3子として産まれました。フルネームをジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(本項ではシドッチ表記で通す)と言い、学術に優れていたシドッチは聖職者になるべくローマに渡り、教皇庁で法律顧問として仕えますが、禁教令が敷かれた日本で宣教師・信徒の殉教者が出ていることを知って訪日を志します。

時の教皇・クレメンス11世に願い出て宣教師(※1)となったシドッチは1704年にフィリピンのマニラに到着、同地で4年間奉職したのちにスペイン船サンタ・トリニダード号で日本へと向かいました。彼は月代を剃って和服を着用して日本刀を腰に差し、あたかも日本人の武士階級のような姿になると屋久島に上陸し、島の百姓・藤兵衛に出会って彼の助けを得て屋久島恋泊に10日間ほど滞在します。

シドッチはマニラ駐在中に高山右近内藤如安など日本を追われたキリシタンの子孫らに出会って日本の文化や語学を学んでおり、篠田謙一さんは日本の侍になりすましたのも日本人を驚かさないための心遣いであったと考察しています。侍に化けたシドッチ渾身の作戦ではありましたが、言語が通じないことと日本人離れした風貌が原因で敢え無く失敗、村人達が役人に届け出ていたこともあってシドッチは薩摩藩に捕らえられ、長崎へと送られてしまったのでした。

新井白石との出会い

長崎での取り調べを受けた際、シドッチは日本皇帝(※2)に会って禁教を解くように陳情することを望むも、カトリックと対立するプロテスタントの妨害を恐れ、オランダ人の通訳を拒みました。その後、シドッチは罪人を閉じ込める駕籠に乗せられて江戸に送られ、江戸の切支丹屋敷(キリシタンを収容する施設)に着いた時には満足に立てないほど弱っていたと言われています。

そのシドッチを取り調べたのが、本項のもう一人の主人公とも言える新井白石です。当代きっての博覧強記で名高い白石は自らが4度に渡って尋問したシドッチの人間性と博学ぶりに感嘆し、対するシドッチもまた白石を“世界にはこのような方が500年に1人現れる”とその能力と人格に惜しみない賞賛を送りました。

中でも、従来のキリスト教奪国論(西洋人宣教師を日本侵略の先兵と見なす説)が誤解であると白石を説得する活躍を見せたシドッチでしたが、キリスト教の教義そのもので白石を説き伏せることなく終わります。白石は素晴らしい知識と知性を持つシドッチが、キリスト教について語る時になると道理に合わなくなるとし、教義については浅はかで荒唐無稽であると否定しました。

尋問を終えた白石は、その時のことをもとにして西洋への研究をまとめた“西洋紀聞”と地理書“采覧異言”を後に記すことになります。そして、幕府に対して次のような献策をしました。

まずは上策として本国への強制送還、中の策がシドッチを拘束すること、そして下策が極刑に処してしまうというものです。結果、幕府からの返答は中策と決まり、シドッチは切支丹屋敷に留め置かれることとなりました。その待遇は宣教師ないことを条件に、拷問や棄教もない軟禁と言うべきもので、年に金子25両3分と銀3匁を支給される厚遇だったと記録されています(※3)。

異国の土になろうとも思いは死なず

切支丹屋敷での軟禁とは言え、祈祷書を所持してもお咎めなしで生活にも困らず、長助とはると言う夫婦の使用人を付けられたシドッチは穏やかな日々を過ごしていましたが、とある事件をきっかけに自体は暗転します。夫婦そろって処刑されたキリシタンの親を持っていた二人はシドッチに感化され、彼に洗礼を受けたことを“地獄に落ちたくないので改めて入信したが、国法には背きたくない”と告白した事でシドッチの運命も決まってしまったのです。

1714年、宣教しないとの誓いに背いたシドッチは長助・はる夫妻と共に逮捕され、切支丹屋敷の地下牢に監禁されます。同年の10月7日(旧暦)に長助(妻・はるの死亡時期は不明)が亡くなり、2人の名を大声で呼んで信仰を保たせようとしていたシドッチも同月21日に衰弱死(※4)し、享年46歳で殉教しました。

死去した3名は切支丹屋敷に埋葬されますが、特筆すべきはシドッチの遺体に対する扱いです。彼のものとされる遺骨が死後から300年を経た2014年に発掘された際、他のキリシタンに行われたように棄教のうえ死後も火葬するのではなく、カトリックの伸展葬で葬られていたことが判明しました。そのことについて、前述した篠田謙一さんはシドッチの死を知らされた江戸城からその後の指示が出され、その決定に白石が関与したとする解釈も成り立つと考察されています。

事実、キリスト教の教えにこそ否定的であってもシドッチ個人を否定はせず、彼がもたらした知識に惹かれ、それを元にまとめた著作で日本人の西洋への知識と関心を大いに高めたのが他でもない白石であり、シドッチへの敬意を持っていたのは先にも述べた通りです。

シドッチの生きざまに惹き付けられたのは白石のみならず、藤沢周平さんの小説“市塵”に白石によるシドッチへの尋問が記され、2019年にシドッチと使用人夫婦の列福がバチカンに申請されたこと、そして屋久島で記念館設立に向けた活動が行われるなど、多方面に影響を与えています。伝道に命を捧げて禁教下の日本に渡り、文字通り骨を埋めたシドッチの思いは死に絶えることなく、キリスト教徒か否かを問わず多くの日本人の心に生き続けていくことでしょう。

(※1) 本人の意思以外にも、清国皇帝への特使に同伴していた事や布教庁の命で日本語学習を始めたことなどから、開国を求めた使者でもあったとする説も存在する
(※2) この場合は天皇ではなく徳川将軍を指す
(※3) 20両5人扶持(5人分の生活費に該当する扶持米)と、毎日二汁五菜の食事を支給されていたとする説もあり
(※4) 餓死を選んだ、ないしは凍死とする説もあり

参考文献、サイト

江戸の骨は語る 岩波書店 篠田謙一
左大臣どっとこむ 宣教師シドッチ
屋久島シドッティ記念館 
屋久島観光協会 
カトリック鹿児島司教区
東京キリシタン屋敷の遺跡
西洋紀聞

(寄稿)太田

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