和仁親実の解説~肥後国人一揆に散った国衆~

太田先生

豊臣秀吉の九州征伐後、肥後を拝領した佐々成政による支配に反発した在地の領主や武士、すなわち国衆が天正15年(1587年)に起こした反乱が肥後国人一揆です。この事件はどちらかと言えば成政をはじめ、安国寺恵瓊立花宗茂加藤清正福島正則など秀吉側の武将にスポットが当てられがちですが、本項では一揆に加担した国衆の中でもとりわけ数奇な運命をたどった武将のひとりである和仁親実(わに-ちかむね)を紹介していきます。

主を転々とした古代豪族の末裔・和仁親実

和仁親実は大和朝廷で繁栄した和珥氏の子孫とされる家柄の生まれで、田中城(熊本県玉名郡、和仁城ないしは鰐城とも)を本拠地にしていました。彼が治めていた当時の領地は150町だったと言います。父は和仁親続と言い、母の名は不明ですが立花氏に仕えた統実、親範、そして親宗と言う異母弟がいます。また、姉妹には辺春親行の妻となった姫がいました。

和仁氏は当初こそ肥後菊池氏の支配下にありましたが、その没落後は大友氏に仕え、天正12年(1584年)に龍造寺氏の支援で攻め込んできた田尻氏に田中城を奪われますが、島津義久の助けを得て奪還戦に成功します。

有力な大名の庇護を受けつつ、時にはその服属先を変えても生き残る―こうした親実の、和仁氏の処世術は華々しい戦国大名の活躍の陰で細々と生き残りを目論んでいた国衆にありがちなものでしたが、乱世は彼らにそうした生き残る機会すらも与えませんでした。それこそが、肥後国衆一揆の勃発です。

肥後国衆一揆で命を落とす

肥後国衆一揆は、秀吉に肥後国を与えられた佐々成政は領国化を早急に推し進めたことへの不満ないしは、島津氏に奪われた土地を取り戻せなかった肥後の国人らが反発したために起きた反乱です。

成政の検地に対し、秀吉の朱印状を盾にした国人・隈部親永が拒絶して反旗を翻すと、親実率いる和仁氏は菊池氏の生き残りを始めとした甲斐氏や有働氏などの国人に呼応し、姉妹の夫である辺春親行と共に一揆勢側で参戦しました。当初こそ佐々軍や秀吉が送り込んだ援軍を相手に善戦し、田中城の戦いでは安国寺や立花など1万の軍勢を相手に900余の兵で籠城し、2ヶ月に渡って耐え抜きます。

しかし、田中城で孤軍奮闘する親実の抗戦は、身内から裏切り者が出て終わりを告げました。安国寺恵瓊が調略を仕掛けて和仁氏の家臣をけしかけ、親実を討ち死にさせたとも、義兄弟でもある親行が親実を斬殺したとも言われています。享年は不明です。

生き残った親宗を始めとする人々も粘り強く戦いますが、秀吉の命を受けた小早川氏の撫で斬りで皆殺しの憂き目を見ました。こうして田中城は陥落して肥後国衆一揆も鎮圧され、辛うじて立花氏に仕官していた弟の統実が生き残ります。

また、親実の娘は立花宗茂が治めた柳川藩の藩士に嫁ぎ、その弟は叔父である統実の養子となり、後に小野成美と名乗ることとなりました。一族の完全な滅亡こそなかったものの、国人としての和仁氏は滅亡し、古代から続く一族は戦国の世に消えたのでした。

(寄稿)太田

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