室町時代後期には郡内小山田氏は都留南部を治めていたが、郡内地方は古来より生産性が低く、経済は豊かではなかった。江戸中期の記録でも郡内は石高約25000石と低い生産性だ。
小山田氏が担う重要な役割として、領内に住む富士浅間神社の御使衆の統制と保護があった。
御使衆とは浅間神社の神職で、居宅を宿坊として富士講の道者(富士登山者)に提供すると言う旅館業をし、小山田氏は富士詣の客から通行税を取った。富士浅間神社は富士登山ができない冬季の閑散期には諸国講中の家々をまわり歩き、祈祷や神札・供物を配布する行脚を行い、多くの旦那を抱え、富裕な財力を誇っていた。
戦国時代は富士詣が最盛期となるものの、駿河今川の没落により東海道の治安が悪化し、御殿場口からの登山は閉鎖。富士登山は唯一、郡内からだけだった時期も長かったようで、関所は駒橋から富士麓まで10箇所の関所通過が必要。1人片道で関所10箇所で支払う総額は244文と言われ、小山田氏の貴重な収入源だったようだ。
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小山田氏の御使衆被官化と御使衆の安全(保護)は、郡内の経済面になる「貿易」はもとより軍事面における「諜報(情報収集)」としても有効性があった。また、都留道者の江の島参詣の宿坊として江の島の下之坊に対し要請したり、上吉田浅間社に年中行事や新宮・新神楽所造営を命じるなど、小山田信有(出羽守)が社寺参詣とその統制を通して、権力基盤を安定化させた。さらに、領内の交通網整備と商業政策も行った。
その為、16代の小山田信有(出羽守)の葬儀に10000人参列したこともうなづけ、単なる武田の一家臣ではないことを物語っている。(当時、老人・子供も入れて郡内の領民は約40000人と言われている。)
「郡内」と言う、甲斐と相模に挟まれた土地は、武田と北条の争いに常に巻き込まれたが、1554年の三国同盟により、小山田氏は領内を侵略されずに済むことになっただけでなく、甲斐・相模の治安が安定したことから富士参詣者も益々増えて、税収も増えたようだ。
そして、小山田信茂と言う、武田最強の軍団が、郡内小山田氏より生まれたのである。
・小山田信茂(小山田藤乙丸)~(1545年?~1582年)郡内の実力者
・小山田記~実録・小山田氏の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
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