大一大万大吉の意味【旗印】石田三成と石田為久の関係は?(石田為久の墓も)

関ヶ原の戦いにおいて石田三成は旗印に「大一大万大吉」と記載していたとされる。
元々、石田三成の家紋は「九曜紋」であるが、はて、この「大一大万大吉」とはどのような意味があったのか?

この「大一大万大吉」と言うのは、1184年に木曾義仲を討ち取った石田為久(石田次郎為久)という武将が使っていたものとされる。

石田為久

石田為久(石田次郎為久)は平安時代末期の三浦一族である芦名城主・蘆名為景の子で、当時、相模国大住郡糟屋庄石田郷(神奈川県伊勢原市)を知行していた。
今で言う小田急線の愛甲石田駅付近である。
石田の名前の発祥地は全国に数箇所あるがそのうちの1つでもある。


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石田次郎為久は、1184年に源頼朝の命を受けた源範頼源義経と共に京へ進軍し乱暴狼藉を働いていた木曽義仲を近江粟津原(瀬田の唐橋近く)にて討ち取ったことで名を馳せた武将でもある。
恩賞として近江国石田村を加増された。

すぐになる愛甲石田北側の毛利庄は毛利元就の祖となる毛利季光の知行地であることを考慮すると、毛利家も石田為久(いしだためひさ)と接点があったかも知れない。
そんな石田為久が使っていた旗印(軍旗)が「大一大万大吉」であったとされる。

もちろん、石田三成は同じ苗字の武将(先祖)がかつて使用していた「大一大万大吉」を知り、まさに自分が目指そうとしていることだと言う思いもあり使用したのだろうか?

大一大万大吉の意味

読み方は「だいいち-だいまん-だいきち」。

この意味としては「1人が万民のために、万民は1人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」である。

なお、この「大一大万大吉」を使用したのは、石田三成だけでなく備後山内氏(山内首藤氏)も使用していたとされる。
山内首藤清俊と言う鎌倉武将が、1243年に熊野山領であった相模国愛甲庄を知行しているため、この山内首藤清俊と石田為久じたいも血縁関係など接点があったとも考えられる。
要するに、そもそも山内首藤氏も三浦氏も先祖は鎌倉氏に共通するところがあるためだろう。
ちなみに、戦国大名掛川城主から高知城主になった山内一豊もこの山内家の傍流を称している。


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さらに、ちなみにで申し上げると江戸時代には山内家の一族である五味家が「大一大万大吉」を使用した。

石田城(石田館跡)と石田為久の墓

愛甲石田駅の南東にある園光院の墓地に、石田為久の墓がある。
そもそも、石田城(石田館跡)が現在の園光院とされており本堂・裏手が墓地に石田為久の墓があるのだが、結構、古い五輪塔も予想以上に多く特に案内板などはないので捜しても分からなかった。
スマホで写真を見て、同じ墓石を探そうと捜索開始したら、お寺の方がちょうど買い物で出てきて声を掛けてくださり、お陰様で石田為久の墓をお参りする事が出来た次第である。

石田為久の墓

石田為久の墓がある場所は本堂右脇から入って、墓地の最上段へと上がりすぐ右手であった。
父・石田為景と石田為久が一緒の墓となっている。
付近は「伊志田」と言う地名も残っており、この書き方の方が古そうである。

園光院

園光院への行き方・アクセスは、下記の地図ポイント地点が駐車場となる。

石田三成に関してはこちら
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