阿倍仲麻呂 唐の高級官僚になった遣唐使

遣唐使船

遣唐使”という言葉を学校の授業で一度は耳にしたことがある人も多いはず。
遣唐使として唐(現在の中国)に渡った留学生や学僧が持ち帰った政治制度や文化は、日本に大きな影響を与えました。
あの空海最澄も学僧として遣唐使船に乗船し、唐で仏教を学び、それぞれ日本に天台宗と真言宗を開きました。
このように無事に帰国し、日本に唐の文化をもたらした人々がいる裏で、帰国できなかった人々もいました。


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そのうちの一人で、唐の高官にまでなった阿倍仲麻呂について紹介します。

遣唐使って?

阿倍仲麻呂の紹介の前に、せっかくなので、遣唐使についてもう少しだけ詳しく知ってみましょう。

上述した通り、遣唐使とは当時、先進国であった唐に留学生を送り、唐の文化や政治制度、仏教の教えを日本に持ち帰るための使節のことです。
第1次は630年で、907年に唐が滅亡するまで合計20回程度(諸説あり)送られました。
航路は瀬戸内海・博多を経由して朝鮮半島西岸沿いを北上したり、種子島・屋久島・福江島・奄美島・沖縄島などを経由するなど、年代によって異なります。
遣唐使船は長さ30m、幅は7~8mで、鉄釘は使用されず、平板を継ぎ合わせて造られたものでした。
船は一隻か四隻の編成で、一隻の乗組員は130~150人。
外交官の大使と副使の他に、陰陽師や医師、その他大勢の留学生と学僧が乗っていました。


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航海術が未発達のこの時代の航海は危険が大きく、遭難する船が続出。唐への行き方は、適当に漂着した場所から目指すというものでした。
さらにその漂着した先の先住民に殺されてしまうという事態も発生していて、遣唐使の航海はまさに命懸けだったのです。

「そんな危険を冒す必要ないよ!」と唱え、遣唐使を廃止させたのが、あの菅原道真
第一回の遣唐使船が出発した630年から約200年続いたのだと思うと、遣唐使の派遣は正に国を挙げた壮大なプロジェクトだったのですね。

阿倍仲麻呂とは

では、本題の阿倍仲麻呂にお話に入りましょう。
阿倍仲麻呂(あべ の-なかまろ)は文武天皇2年(698年)現在の奈良県に当たる大和国に生まれました。
19歳の時に第9回の遣唐使船に乗り、留学生として長安に渡ります。
学才に溢れた仲麻呂は、唐の超エリート官僚の任用試験を受験し、外国人でありながら見事合格。
役人として当時の皇帝・玄宗に仕え、「朝衡(ちょうこう)」という唐名を名乗りました。
先進国での職務が余程充実していたためか、日本から第10回目の遣唐使船が来ても、仲麻呂は帰国しませんでした。
唐での職務に没頭しているうちに35年の歳月が経過し、初めて唐に来たときは19歳だった仲麻呂も54歳になっていました。
いよいよ帰国を決心し、第12回目の遣唐使船に乗船します。
ところが、その船が暴風雨に遭い、ベトナムに漂着。
仲麻呂を乗せた船は、そのまま唐に戻ることになってしまいました。
仲麻呂は帰国を断念。
その後はベトナム総督などの重職を歴任し、宝亀元年(770年)1月に唐で亡くなりました。

あの月は日本で見たものと同じかな?

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

『大空を見上げると月が見えています。
あの月は故郷で見た月と同じでしょうか?』


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百人一首にも選ばれているこの和歌は、日本への帰国を決意した仲麻呂が、彼の送別会で詠んだものだとされています。
久しぶりの帰国に胸を膨らませる気持ちが伝わってくるような和歌ですね。
結局、日本の地を再び踏むことなく、唐でその生涯を閉じた阿部仲麻呂。
彼が仕えていた宮廷は現在公園となっており、そこには阿倍仲麻呂記念碑が建っています。

(寄稿)中みうな

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