雨宮正利とは~上田原の戦いで討死した雨宮刑部の墓





雨宮正利(あめのみや-まさとし)は、信濃・鞍骨城主である清野信秀の子として生まれたが生年は不明。
父・清野伊勢守信秀は、初名を清宮清秀と言い、葛尾城主である村上義清の一族して、信濃へ侵攻した武田信玄に対抗した。

その子である雨宮正利(雨宮刑部、雨宮三郎兵衛)は、雨宮昌秀(雨宮摂津守)の養子に入って信濃・唐崎城主となった。
ただし、雨宮正利は雨宮正教(まさのり)と書く場合もあり、また、雨宮昌秀の実子とする説もある。

そして、1548年、武田晴信(武田信玄)が大門峠を越えて侵攻したため、村上勢はこれを向かい討つべく上田平に布陣し、産川(千曲川支流)を挟んで対峙。
こうして、1548年2月14日「上田原の戦い」となった。

合戦は激戦となったようで、村上勢は屋代基綱・小島権兵衛・雨宮正利(雨宮刑部)らが討死するも武田勢に勝利した。

下記が討死した雨宮正利の墓(雨宮刑部の墓)となる。

雨宮正利の墓(雨宮刑部の墓)

雨宮刑部の墓がある場所は、上田原の下記の地図ポイント地点。
北側からの道路脇から登るか、南側の道路から入って下るか、どちらかの徒歩アクセスとなる。

村上義清が一時不利になった際に、身代わりとなり討死したと言う屋代源吾の墓や、小島権兵衛の墓も近くの田畑の一画にある。

なお、武田勢では小山田信有が奮戦したが、板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門らが討死。
武田晴信にとっては初めての敗戦となった。
上田城からもほど近い上田原には、板垣信方の墓もあるのでセットでお参りして頂きたい。



ちなみに、雨宮正利(雨宮刑部)の実父とされる清野信秀は、1550年の砥石城の戦いの際、9月1日ら武田勢に寝返っている。
その後、一時、村上義清に再度従属するも、村上義清が武田信玄に敗れた際には、一緒に春日山城主・長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃れている。
しかし、1559年には武田家に臣従したたため、清野信秀は旧領回復を果たした。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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