青根の戦い・勝快法印と三増峠の戦い後の武田勢の撤退





 1569年に、武田信玄北条氏照らが雌雄を決した三増峠の戦い

 三増峠の戦いのあと、武田勢は長竹に出て、津久井城の北条勢をけん制しながら、串川を経由し、大橋の六間入口バス停付近から、青山に向かい、三ヶ木に出た。
 串川から新屋敷のバス停に続く現在の412号の道路は後世にできたものなので、戦国時代、串川から青山に向う道は、大橋の光明寺の手前で分かれていたことが伺える。

かくし沢

 津久井城の西側にある長竹には「かくし沢」と言う沢がある。
 この沢に入ると、津久井城からは見えないため、志田峠から北上した小幡重貞や加藤景忠ら1200の別働隊が、この沢に隠れていたと言う伝承がある。

 かくれ沢(津久井)

 なんで隠れなくてはいけなかったと言うと、説明版には当時3000近くの北条勢(津久井衆)が津久井城に入っていたため、1200しかいなかった武田勢・小幡重貞らが見つからないように隠れたと言うのだ。

 かくれ沢

 しかし、津久井城の3000が討って出てこないようにと、牽制するために小幡重貞ら1200は津久井城付近に進出した訳であるため、わざわざ、隠れる必要性がわからない。
 実際問題、小幡重貞隊は、津久井城の西であるこの金原にて、枯れたとうもろこしに火をつけて、夜間、津久井城からは松明の群のように見えるよう、大軍で展開していると思わせる心理戦も行っているため、増々、隠れなくてはならない理由が不明だ。
 調べているうちにこの隠し沢は「囲い沢」とも呼ばれていることがわかった。
 それを考えると、この付近の台地に本陣を置いて、津久井城を囲う構えを見せた、すなわち、津久井城からはそのよに見えたため、地元ではあの沢の上で囲ったと言う「囲い沢」と言う伝承となったと考えるのが妥当か?

 場所は下記のポイント地点。
 

武田勢の勝どき

 三増峠の戦いで北条勢と戦った後、武田信玄ら本隊は長竹から三ケ木へ抜けて、道志川を渡る際には、渡川時間を短縮する為、2手に分かれ、本隊は、三ヶ木→落合坂→沼本の渡しから、別動隊は三ヶ木新宿→みずく坂(七曲坂)→道志へと渡って、そり畠(反畑)で合流した。
 この時、又野城や、上の山城の北条勢は放棄して津久井城に入っていたのか、城攻めになった記録はない。
 なお、合流したそり畠(反畑)は現在の相模原市相模湖町寸沢嵐辺りと思われる。

 このそり鼻にて武田勢は勝どきをあげ、首実検を行った。
 合戦に勝利した場合、通常は勝鬨(かちどき)も、首実験も、戦場で行うのが通例であるが、この時ばかりは小田原城からの北条氏康本隊の追撃を警戒したのが、三増峠から10km以上離れたこの地で、両軍戦死者の魂を弔った。

 「首洗池」と言う、討ち取った首を洗ったとされる池が現在もある(ただし、水はない)。そして、浅間の森(信玄の首塚)にて丁重に埋葬した。現在、浅間神社の碑がある場所とされている。

 その翌日には、自国領に入り、都留郡の諏訪明神で夜営をしたが、傷を負い、寒さに凍えた兵たちは、神社の拝殿を壊して薪にしたと言う。
 藤野の由緒ある「石楯尾神社」の社殿も壊した燃やしたと言う記録がある。



青根の戦い

 実は、三増峠の戦いあと、武田勢の甲斐への退路にて、もう1つの悲しい戦いがあったことは、ほとんど知られていない。

 武田本隊は、現在の甲州街道に出て上野原経由で帰路についたと考えられるが、別の一隊は現在の道志みち(国道413号)で帰った。
 推測するに、その方向を知行している、小山田信茂らの部隊、もしくは家臣かも知れない。

 北条勢として動いていた日向薬師の山伏がその帰路についている武田勢を補足して、現在の青根(駒入原)で戦闘となった。

 北条家傘下の山伏は、日向薬師、八菅山七社権現、心源院(八王子)など、合戦ともなると僧兵として、諜報活動・戦闘部隊として活躍しており、その見返りとして、北条家は寺に寄進(経済的支援)していた。

 青根の戦いでは、日向薬師・八大坊の「前大先達権大僧都勝快法印(勝快法印)」を始め、日向薬師の山伏の多くが討死したようだ。
 現在「法印の首塚」が建立されている。

 法印の首塚

 そして、青根の諏訪神社には山伏たちを祭った八幡宮がある。
 かなり小規模な戦いであり、合戦の名称はないが「青根の戦い」と称させて頂いている。
 実際、青根では武田信虎の時代に、青根を荒らしたと言う事があるので、第2次青根の戦いと言った方が正解なのかも知れない。

 伝説によると、日向薬師の山伏は、青根にて武田勢を待ち伏せしたとされている。
 しかし、待ち伏せするのが、なぜ青根なのか?、また、日向薬師からはるばるこの青根なのか?、理由がよくわからないが、残念ながら資料が乏しくは詳しくはわからない。

 多勢に無勢であり、山伏も無謀な戦いを挑むとは考えにくいので、青根にて情報収集をしていたら、北条勢の山伏だと言う事がバレてしまい、武田勢に襲撃されたと言う可能性があるのではと推測する。
 武田勢からは「待ち伏せしていた」と見えてもおかしくない。

 初めて青根を訪れるような方は、びっくりするくらいの山の中だが、法印の首塚の場所は下記の地図ポイント。
 駐車場はないが、道路沿いに短時間の停車であれば、駐車禁止でもないので、問題ないだろう。

 

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!


関連記事



コメント

  1. この記事へのコメントはありません。



気になる戦国女性

  1. 吉岡妙林尼(よしおか-みょうりんに)の生い立ちは良くわかっていませんが、父は林左京亮、又は丹生正敏(…
  2. 岩村城
    秋山虎繁(あきやま-とらしげ)は、秋山領主(山梨県南アルプス市秋山)である秋山信任(秋山新左衛門信任…
  3. お市の方は、1547年?に織田信秀の娘として誕生した。呼称としては、市、お市の方、市姫、小谷の方(お…
  4. 常高院(じょうこういん)・浅井初(お初、於初)は、1570年に小谷城にて生まれた。 父は小谷城主・…
  5. 早川殿(はやかわどの)は、早河殿とも書きますが、今川氏真の正室になった女性です。 NHKの2017…

人気の戦国武将

  1. 真田丸(さなだまる)とは、真田幸村が築いた大阪城の出城の名称である。 大坂冬の陣に参加して欲し…
  2. 北条氏康(ほうじょう-うじやす)は、小田原北条氏の第2代当主・北条氏綱の嫡男として1515年に生まれ…
  3. 稲葉一鉄(いなば-いってつ)は、土岐頼芸の家臣・稲葉通則の6男として、1515年に美濃池田の本郷城に…
  4. 戦国時代最大とも言われる山岳戦となった三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)。 武田信玄が勝利した…
  5. 戦国時代の1582年6月2日の本能寺の変で織田信長を倒して明智光秀ですが、なかなか味方してくれる大名…

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信

ページ上部へ戻る