一色藤長の解説 足利義昭の擁立に従った幕臣

一色藤長

一色藤長(いっしき-ふじなが)は、一色晴具の子で戦国時代の武将、室町幕府の御供衆となります。
一色氏は、清和源氏義国流で足利氏の一族となりますが、その一色氏も色々と分かれていて、一色藤長の場合には、式部少輔と御部屋衆を世襲した式部一色家の当主にあたります。

1537年、式部少輔となり、1544年には、室町幕府第13代将軍・足利義輝から、所領を与えられました。
1549年、父・一色晴具が喧嘩に巻き込まれて、喉に矢が刺さり死去すると、家督を継いで、細川輝経らと共に将軍・足利義輝の近くで仕えました。

1552年、従五位下となり「藤長」の名を受けています。
また、姉妹が足利義晴の側室・智徳院となったいたこともあり、御部屋衆から御供衆へと格上げになった模様です。


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1562年、室町幕府の幕臣・伊勢貞孝が、松永久秀によって討たれると、所領の加増を受けています。

1565年、永禄の変で将軍・足利義輝が、二条御所にて殺害されますが、このとき、一色藤長は非番だったようで、難を逃れています。
その後、三好三人衆らによって興福寺に幽閉されていた一乗院覚慶を、幕臣の細川藤孝三淵藤英和田惟政、仁木義政、米田求政らと救出して、越前にも付き従ったようです。

その後、覚慶が還俗し足利義昭と改名し、織田信長によって上洛すると、一色藤長は諸大名との取次(外交)も務め、武田信玄らとの交渉も担当しました。

1573年、足利義昭が織田信長と対立し、槙島城から三好義継を頼って河内・若江城に逃れた時も、一色藤長は従っていたようです。
その後、足利義昭は、紀伊の興国寺に移ると、紀伊・泊城(芳養泊城)の湯川教春を頼りました。
鞆の浦へ足利義昭が移る際に、一色藤長は、紀伊に残って、工作を続けることを命じられたようですが、結果的に、数日後にあとを追っています。
そのため、一色藤長は足利義昭から、家臣の座を追放されたようで、代わりに真木嶋昭光が一色藤長の仕事を担当しました。

一色藤長は、毛利家の仲介を受けて、足利氏の家臣として復帰を試みましたが、許されず、細川藤孝を頼り客将となったようです。


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一色藤長の没年は、1596年と伝わりますが、1600年の関ケ原の戦いでは、石田三成に味方したため、細川忠興の攻撃を受け、討死したとする説もあるようです。

子孫としては、一色範勝、一色範視、一色範風、一色範長と続いています。

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