東京の世田谷にある豪徳寺(ごうとくじ)は、1480年に世田谷城主・吉良政忠が、伯母で吉良頼高の娘である弘徳院の住まいとなる「弘徳院」と言う庵を結んだのが始まりとされます。
当初は臨済宗でしたが、1584年からは曹洞宗になりました。
住宅街の道幅も狭く、ゴチャゴチャしている世田谷ですが、山門から大溪山豪徳寺の境内に入りますと、下界と異なりかなり広々とした空間であることが分かります。
1633年に世田谷領が彦根藩の管轄となると、彦根藩主・井伊直孝が井伊家菩提寺として伽藍などを整備しました。
寺号は井伊直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」から取って、豪徳寺と言う事になります。
仏殿は、井伊直孝の娘・掃雲院が、父の菩提を弔うために1677年建立しました。
ピンボケになってしまいましたが、梵鐘は1679年の作です。
井伊家の菩提寺は彦根や井伊谷にもありますが、なぜ世田谷の豪徳寺も菩提寺なのか?と言いますと、下記のような由来があります。
江戸藩邸に詰めていた井伊直孝がある日、鷹狩りの帰りにこの付近を通ったそうです。
その時に「猫」が井伊直孝を引き寄せるように門内に招き入れられると、たちまち天候が急変して「雷雨」になったと言います。
雨に濡れるのを猫が救ってくれただけでなく、和尚の法談を聞くこともできたのを大いに喜んだ井伊直孝は、井伊家御菩提所にするのです。
そのため、境内には猫を祀った「招福殿」があり、豪徳寺では招福猫児(まねぎねこ)と呼ばれています。
彦根城でも見られるマスコット・ゆるキャラの「ひこにゃん」が、にゃんこである意味と繋がりも納得です。
招福殿の左手には多くの招き猫が奉納されており、豪徳寺は「招き猫発祥の地」の1つとされています。
豪徳寺の招き猫の特徴は「右手」で招いており小判などを持っておらず、上品な猫です。
庫裏?にて、奉納猫を300円から購入することができます。
また、商店街では「たまにゃん」としてゆるキャラにもなっています。
ひときわ目を引き付ける三重塔には、猫の装飾も施されています。
その招福殿より西側に進みますと、六地蔵が控える奥地が「彦根藩井伊家墓所」となりますが、お参りする為に入ったとたん、正直、ビックリ致しました。
非常に墓域が「広く」そして、井伊直孝の他にも6代彦根藩主・井伊直恒、10代・井伊直禔、12代・井伊直幸、15代・井伊直弼、16代・井伊直憲の墓もあり、その他に正室や子など一族の墓も多数あるのです。
さすが、井伊家墓所が国の史跡になっているだけあります。
下記は、豪徳寺の仏殿を建立したと言う井伊直孝の長女・亀姫(掃雲院)の墓で、大変立派な石碑です。
下記は1860年3月3日に桜田門の変にて暗殺された幕末の大老・井伊直弼の墓です。
近くには、井伊直弼の墓守として生涯を終えた遠城謙道、日下部鳴鶴の墓、桜田門殉難八士之碑などもあります。
なお、井伊直弼の遺体は、江戸藩邸で首と胴体と縫い合わせて4月10日に豪徳寺に葬られたとれますが、近年の調査では、この井伊直弼の墓の下に埋葬されている痕跡がないことがわかったそうです。
2009年に傾いた墓の修理の際に、地下3mまでレーダー調査したそうですが、国の史跡でもあるため、それ以上の調査はできなかったとの事で、真相解明はまだです。
高安寺の見学所要時間は約20分といったところです。
水場の付近に昔ながらのトイレがありますが、温水式洗浄トイレにはなっています。
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最近、東京の寺院は、防犯の為か閉ざしている門が多くて、境内へは1箇所からしか入れない事が多くあります。
豪徳寺もそうで、訪問時には南側の正式な山門しか開いていませんでした。
豪徳寺の入口への最寄り駅は、法律上は路面電車登録されている東急・世田谷線の宮の坂駅であり、徒歩5分となります。
ちなみに世田谷線の運賃は乗車時の前払い式で、交通ICカードも使えます。
小田急電鉄の豪徳寺駅からだと、住宅街の中を抜けて徒歩約10分となります。
下記の地図ポイント地点が豪徳寺の入口となる山門がある場所です。
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豪徳寺の参拝者用無料駐車場も、その山門の右脇にある入口から入りれます。約30台は止められそうです。
トイレもありましたが、小生が訪問した日は、ドアが閉ざされていましたので、念のため記載しておきます。
※地図下の記事では「世田谷城」について続けて記載致します。
・世田谷城 奥州・吉良氏による東京の城跡
・井伊直孝に関してはこちら
・大老・井伊直弼~開国を唱えるも桜田門の変にて横死する
・松陰神社【東京都】吉田松陰の墓への行き方
・太田道灌の解説~忠義を貫いた扇谷上杉家の名将~伊勢原・太田道灌の首塚も
・北条氏綱とは~関東進出の基盤を作った政治力ある小田原城主
コメント
コメント ( 4 )
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初めてコメントさせていただきます。興味深く拝読させていただきました。
1点だけ指摘させてください。
「徳川家に古くから仕えた三河吉良氏」とありますが、近年の研究によれば、吉良氏が徳川家に仕えたのは江戸幕府が開かれた数年後のことです。土豪出身の徳川氏と源氏一族の吉良氏では家格が違いすぎますし、吉良氏は家康の父や祖父の後ろ盾になっていた時期もありましたし、桶狭間の戦いを経て独立した徳川(松平)氏と戦って一時滅亡しています。古くから仕えていたわけではありません。
コメントありがとうございます。
私が参考にさせて頂いた際には、そのような表記がございましたが、貴重な他の情報を賜り、深く御礼申し上げます。
もちろん、歴史の多くには「諸説」ございますので、また、最新の成果など何かありましたら、お知らせ願えますと幸いです。
@高田哲也
ご返信痛み入ります。
「三河吉良氏」「西条吉良氏」は中世(鎌倉~戦国時代)の存在ですので、徳川(松平)氏と姻戚関係になったことはあっても、徳川氏に仕えたことを示す史料は見つかっていませんし、「諸説」にもありません。吉良氏が徳川氏に仕えたのは近世に入ってから(谷口雄太氏論文「中世吉良氏の研究」)ですので、「徳川家に古くから仕えた」という部分の削除をよろしくお願いします。
ご指摘を賜りまして、誠にありがとうございます。
当方にて近年研究された新たな資料の入手ができ、確認が取れましたら、追記・修正・削除などのた対応を検討させて頂く所存です。
それまでは、このコメント欄もそのまま公開し、ご覧になられました皆様にて判断して頂けるようにさせて頂きます。
ありがとうございます。