井伊直勝(いい-なおかつ)は、赤鬼と恐れられていた井伊直政の長男として1590年2月に浜松にて生まれた。初名は井伊直継。
母は正室・花(徳川家康の養女、松平康親の娘)。
正室は磐城平藩主・鳥居忠政の娘で、継室は中島新左衛門の娘。
井伊直孝(いい-なおたか)は、井伊直政の次男として1590年2月11日に生まれた。
母は側室である印具氏の娘。
正室は阿喜姫(徳島藩主・蜂須賀家政の娘)。
この異母兄弟として同じ年に生まれた、徳川四天王・井伊直政の子である、井伊直勝と井伊直孝の2人をまとめて、わかりやすくご紹介したい。
まず、長男・井伊直勝(井伊兵部少輔直勝)の幼名は万千代で、初名の井伊直継から、のちに井伊直勝と改名した。
弟の井伊直孝(井伊掃部頭直孝)の幼名は弁之助。
兄の井伊直勝は正室が産んだ子であったため、幼少よりのちの後継者として養育されたが、弟の井伊直孝の母・印具氏の娘は、正室・花の侍女であったと言う説があり、父・井伊直政も正室・花に遠慮して、井伊直孝は井伊家領内の上野安中の後閑城近くにある北野寺の萩原図書に預けられ養育されたと言う。
そのため、父・井伊直政が井伊直孝に初めて会ったのは12歳になった1601年であったとされ、萩原図書の元で井伊直孝は6歳~16歳の10年間、武芸・学問に励んだ。
井伊直政は1600年関ヶ原の戦いでの鉄砲傷のあと怪我が重く1602年2月1日に死去しているため、恐らくは死の前に一目会っておこうと言う話になったものと推測する。
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父・井伊直政が1602年に死去すると、当然のように18万石・佐和山藩主には井伊直勝(井伊直継)13歳が就任したが、何事においても井伊直勝は病弱であったと言う。
井伊家の領地のうち彦根藩は井伊直勝(井伊直継)が継いで、幕府からの命もあり、西国に備えた防衛拠点として彦根城の新築に取り掛かった。新城の場所としては、家老の木俣守勝が彦根山に城を築く事を助言したと言う。
なお、弟・井伊直孝は徳川秀忠の近習となって江戸に滞在し、徳川秀忠が2代将軍に就任した1605年4月26日に従五位下・掃部助。
1608年に書院番頭となり上野刈宿5000石となったが、その優秀さは評判となり、福島正則や毛利輝元らが5万石で抱えたいとの申し出もあったほどだと言う。
この話を本多正信から聞いた徳川家康は、井伊直孝を呼び寄せて面会したとされている。
幕府から3人の公儀御奉行の派遣と、周辺7カ国12大名が普請に当たった「天下普請」にて彦根城が1606年に完成すると、兄・井伊直勝(井伊直継)は佐和山城から居城を移したが、まだ若年であったため藩の政務は、引き続き家老らが取り仕切っている。
しかも、個性の強い家臣の中で、新参者として徳川家の直臣から父・井伊直政の与力になっていた武将も多かったため、家臣らはまとまりに欠け、派閥争いが深刻化していた。
徳川家康は木俣守勝と鈴木重好を井伊直勝(井伊直継)の家老にしたが、1605年に椋原正直・西郷重員らの派閥が、鈴木重好・鈴木重辰父子の不正を徳川家康に直訴したため、鈴木重好が追放されしまう。(ただし、子の鈴木重辰は椋原正直・西郷重員らと和解して起請文を取り交わしている。)
また、1610年には木俣守勝が死去したため、井伊直勝(井伊直継)は徳川家康の了承を得て、鈴木重辰と椋原正直に家老を命じた。
しかし、亡くなった木俣守勝とその養子・木俣守安も、家臣らより慕われていたようで、再び家臣らの統制が乱れる事になる。
そのため、憂慮した徳川家康は、井伊谷からの古参の井伊家臣は井伊直勝(井伊直継)に付け、武田滅亡後の武田家遺臣などは井伊直孝に配属することを命じ、井伊直孝は1608年に上野白井藩1万石の大名となり、幕府の大番役に任じられた。
1613年には伏見城番となっている。
大阪の陣
生来病弱で軍役にも出る事ができなかったとされる兄・井伊直勝(井伊直継)であったため、1614年、大阪冬の陣の際、徳川家康は、井伊勢の指揮を弟・井伊直孝に任せ、井伊直勝(井伊直継)は安中の関所警護を務めた。
この時、酒癖が悪かった井伊直勝は、酔った勢いで正室の顔を脇差で傷付けてしまったとされる。
そのため、妻(鳥居忠政の娘)は実家の鳥居家に戻り、鳥居家と井伊家の確執に発展したと言う。
弟・井伊直孝は松平忠直と共に、真田丸の戦いにて、真田信繁(真田幸村)と木村重成からの挑発に乗り先走ってしまい、約500の死者を出すと言う損害を被り、軍令違反ともされたが、徳川家康は「味方を奮い立たせた」とかばい、処罰はされなかった。
その後、兄・井伊直勝(井伊直継)の病弱を理由に、弟・井伊直孝と井伊家の家督交替が命じられ、兄・井伊直勝(井伊直継)は当主の座を追われ、この時、直継から直勝と名を改め、上野・安中藩3万石の分知を受けた。
このため、兄・井伊直勝(井伊直継)は彦根藩の歴代当主としては数えられておらず幻の2代藩主となる。
代わって彦根藩の2代藩主は弟・井伊直孝と言う事になっており、彦根藩15万石の藩主となった。(3万石は安中藩に分知)
1615年、大阪夏の陣にて、弟・井伊直孝は藤堂高虎と共に先鋒を務め、八尾・若江の戦いにて、木村重成と長宗我部盛親を撃破し雪辱を遂げた。
更に、徳川秀忠の命を受けて、大坂城の山里郭に籠城していた淀殿と豊臣秀頼を包囲し、自害に追い込み、この勇猛な戦いぶりは「井伊の赤牛」と恐れられた。
戦後、彦根藩は加増を受けて20万石となっているが、松平忠直とは対照的な論功行賞でもある。
安中にて城下町や関所の整備も行った、兄・井伊直勝は、1632年に隠居して嫡男・井伊直好に家督を譲ったが、この年、弟・井伊直孝は、徳川秀忠は臨終に際して、松平忠明と共に枕元に呼び出された。
そして、井伊直孝と松平忠明は、3代将軍・徳川家光の後見役(大政参与)に任じられ、大老職のはじまりとなっている。
そのため、井伊家からは幕末の井伊直弼まで多くの大老を排出した。
弟・井伊直孝は徳川家光から特に信頼され、譜代大名の中でも一番多い30万石を与えられた。
徳川家綱の元服でも井伊家屋敷にお迎えし、徳川家康の法事でも将軍名代として日光東照宮に参詣。
朝鮮通信使との応接も幕閣筆頭として対応するなど、1659年6月28日に70歳で逝去するまで、重鎮として幕政を主導した。
なお、死の際に家臣の殉死を禁じたとされ、のち1665年の武家諸法度にも殉死禁止が加えられる事となった。
一方、隠居している兄・井伊直勝のほうは、1645年に子の井伊直好が三河西尾藩へ移った際に従い、1659年に掛川藩となるとこれにも従った。
弟は先に亡くなったが、病弱だった井伊直勝は、1662年7月11日、掛川城で病死した。73歳と言う長寿であった。
彦根城の人柱
井伊直勝(井伊直継)の名誉のために1つ、いい話を。
藩主からは抹消されたが彦根城を築城したのは、間違いなく井伊直勝(井伊直継)と言う事になる。
その天守閣築城の際に「人命を無駄にしてはならぬ」とく井伊直勝(井伊直継)は人柱を認めなかった。
それでも、天下普請を成功させるためにと、普請役の娘が人柱を買って出ると、その心に打たれて、白装束の娘を白木の箱に入れて人柱として埋めたと言う。
こうして、工事も無事に終わり、現在の国宝・彦根城が完成したが、完成の報告に井伊直勝(井伊直継)の元を訪れた普請役の前には、人柱として埋められたはずの娘が現れた。
井伊直勝(井伊直継)は、人柱の娘が白木の箱に入ったところで、別途用意していた空箱と入れ替えていたと言う。
彦根での倹約
弟・井伊直孝の方の話も2つ加えておく。
兄に代わって彦根城に入った井伊直孝が、最初に行ったのは徹底した倹約である。
家臣には木綿の着物を着るように求めた。
城下でも倹約令を施行されたが、徳川家を敵視する石田三成のお膝元と言う事もあり、倹約が浸透しなかったため、井伊直孝は「衣服を改めない者は、自分に泥を塗ることになる」と高札を立て、倹約しない者は全身泥まみれにすると警告した。
これにより、彦根では派手な着物を着る者がいなくなったと言われている。
豪徳寺の招き猫
井伊直孝が江戸郊外にて鷹狩りをした帰りに、豪徳寺の前を通りかかると、住職の飼い猫が手招きするような仕草をした為、豪徳寺に立ち寄って休憩したと言う。
すると、天気が変わって雷雨となった。
この猫のお蔭で、雨に濡れずに済んだ井伊直孝は、1633年以降、豪徳寺に対して多額の寄進を行い、井伊家の菩提寺になったと言う。
その猫が死ぬと、丁重に弔われて境内に招猫堂が建立されたことから、一説では「招き猫発祥の地」とされる。
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