山本信供、山本十左衛門、山本鉄以【山本勘助の子孫】





山本勘助には子がいたとされるが、その実在も含めて不確定でわからないことが多い。

「甲斐国誌」によると山本勘助の子として山本信供(山本勘蔵、山本勘蔵信供)の名が見られ1556年に高根で生まれたとされる。山本勘助の実子なのか養子なのかなどは定かではない。
長篠の戦いでは高坂昌澄らと長篠城の監視隊として赴いていたが、武田勝頼本陣より設楽原に集結せよと命じられる。集合地点に到着した時にはすでに武田は総崩れ。山本信供は単騎で徳川家康本陣を目指したが渡辺半蔵守綱に討ち取られた。享年20歳。



「武功雑記」に記述の記述では山本勘助には関山派の僧となった子もいたとされる。ただし、史料としての信憑性は低い。山本を名乗っていた別の武田家臣・山本九郎左衛門の次男・山本良天は出家し、恵林寺の僧となっている。これを山本勘助の次男と誤ったとも考えられる。

毛利家の信憑性が高い史料「閥閲録」によると、姓名はわかっていないが山本勘介の孫は毛利元就に仕え、その子・山本勝次郎(山本勘助の曾孫)も毛利家に仕え、山本勘介の武名は毛利家でも知られており、子孫は優遇されたとある。こちらは事実である可能性が高いが、山本勘助の子の名は不明である。

また、山本勘助の娘に婿養子があったようで、山本十左衛門の名が見られる。
武田氏滅亡後は徳川家康に仕えて、旧領を安堵されたと言うが真偽は不明。

また、山本勘助には京都妙心寺の僧になっていた山本鉄以(山本勘市)と言う子がおり、この山本鉄以(山本勘市)が甲陽軍鑑の編集に携わったとされるが、実在も含めて不明である。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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