「大鏡」というタイトルは、「歴史を明らかに映し出す優れた鏡」という意味を持つ。
その名の通り、天皇や藤原氏一門の事績だけではなく、彼らの性格を伺わせるような、細かな逸話も取り上げられている点が特徴である。
作品内における中心人物は藤原道長となっているが、今回は彼のブレーンであった「四納言」のひとり・藤原公任のエピソードについてご紹介する。
藤原公任(966年~1041年)は、平安時代中期の公卿であり歌人。
藤原北家小野宮流出身で、関白・太政大臣であった藤原頼忠と、醍醐天皇の孫娘との間に生まれた長男。
「和漢朗詠集」の編者としても知られている。
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《原文》
この大納言殿、無心の事一度ぞのたまへるや。
御妹の四条の宮の、后に立ちたまひて、初めて入内したまふに、洞院のぼりにおはしませば、東三条の前を渡らせたまふに、大入道殿も故女院も胸痛くおぼしめしけるに、按察大納言は后の御せうとにて、御心地のよくおぼされけるままに、御馬をひかへて、「この女御は、いつか后には立ちたまふらむ」と、打見入れてのたまへりけるを、殿を始め奉りて、その御族安からずおぼしれど、男子宮おはしませば、猛くぞ。
よその人々も、「益なくものたまふかな」と聞きたまふ。
一条院、位に即きたまへば、女御、后に立ちたまひて入内したまふに、大納言殿の、亮に仕まつりたまへるに、出車より扇を差し出だして、「やや、物申さむ」と、女房のきこえければ、「何事にか」とて、打寄りたまへるに、進の内侍、顔を差し出でて、「御妹の素腹の后は、何処にかおはする」ときこえ掛けたりけるに、「先づ年の事を思ひ置かれたるなり。
みづからだにいかがと覚えつる事なれば、道理なり。
『なくなりぬる身にこそ』とこそ覚えしか」とこそのたまひけれ。
されど、人柄し、よろづに善くなりたまひぬれば、事に触れて棄てられたまはず、かの内侍の咎なるにて止みにき。
《現代語訳》
(大宅世次)「この公任卿が、一度うっかりした発言を仰ったことでした。
姉上の遵子様が立后されて、初めて宮中に入られる時、北に向かっておられて、大入道殿・藤原兼家公の屋敷前をお通りになられた際に、兼家公も詮子様もつらく思われていましたが、公任卿は遵子様の弟君でいらっしゃったので、姉上が立后された嬉しさのあまり、馬を止めて“このお邸の姫君はいつになったらお后に立たれるのでしょうね”と、邸の中を覗き込んで仰せられたのを、兼家公をはじめ一族の方々は不愉快に思われたが、親王さまがお生まれになったので、心強くいらっしゃった。
他家の人々も“公任卿はつまらないことを仰ったものだ”と言い合った。
一条天皇が即位されて、詮子様が皇太后になられた際に、公任卿皇太后亮としてお供なさる時、女車から扇を差し出して、“物申したいことがございますわ”と、お供の女房がお声をかけたので、“何事だろう”と思って近寄られると、進の内侍という女房が顔を出して、“姉上の、皇子を生まないお后はどちらにおいでですの”とお尋ねになったので、公任卿は“先年の事を根に持っておられるのだな。
当人でさえまずかったと気が咎めていた事なので、当然だ。
穴があったら入りたいと思っている”と仰った。
失言こそありましたが、お人柄が万事につけて素晴らしかったので、事あるごとに主流から疎外されることもなく、かの女房のやり過ぎということで決着がついたのでした。」
この逸話の背景を理解するためには、当時の円融天皇(959年~991年)の後宮事情について知っておく必要がある。
円融天皇の中宮が没した際、その後釜を狙って争ったのは、公任の姉・遵子(957年~1017年)と藤原兼家女・詮子(962年~1002年)だった。
詮子は円融天皇のひとり息子・のちの一条天皇を生んだが、当時は兼家の位が低く、関白の娘であった遵子が立后した。
上記はその時のエピソードであり、公任の発言は兼家一門の恨みを買ったことが記されている。
しかし、中宮に立ったものの、遵子は円融天皇との間についに子をもうけることはなかった。
時は流れ、一条天皇の即位により詮子が皇太后になった際、彼女の女房が公任に皮肉を言って、いつぞやの発言にやり返してやったのだった。
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この他にも、公任の発言に関するエピソードはいくつか残っているため、もしかすると彼はいわゆる”口が悪い”人間だったのかもしれない。
しかし、公任は藤原道長のような栄華こそ極められなかったが、「大井川三舟の才」にも語られるような天才だった。
当代一の文化人だった公任の人間くさい部分を現在に伝えている点も、「大鏡」が持つ魅力である。
【参考文献】
・「大鏡(新潮日本古典集成/石川徹)」
(寄稿)河合 美紀
・眠れないほど面白い大鏡① 「時平の笑い上戸」
・大鏡② 「賢帝に愛され、中宮に嫉妬された女御」
・大鏡③ 「書聖・佐理のルーズな性格」
・大鏡⑤ 「藤原道長、妹の懐妊を疑う」
・和宮親子内親王 副葬品の写真は誰のもの?
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