眠れないほど面白い大鏡③ 「書聖・佐理のルーズな性格」

大鏡

大鏡」は、藤原道長の栄華を中心に、宮廷と藤原北家の歴史を扱っている歴史物語だ。
歴代天皇や藤原摂関家の事績だけではなく、ちょっとしたエピソードまで挿入されており、作者は不明だが、摂関家や村上源氏に近しい男性官僚という説が有力である。
その中から今回は、書聖・藤原佐理についてご紹介する。

藤原佐理(944年~998年)は、平安時代中期の公卿であり能書家。
藤原敦敏の長男。
小野道風、藤原行成とともに「三跡」と称せられ、真跡としては「離洛帖」等が有名。


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《原文》

御心ばへぞ、懈怠者、少しは如泥人ともきこえつべくおはせし。
故中関白殿、東三条造らせたまひて、御障子に歌絵ども書かせたまひし色紙形を、この大弐に書かせ申したまひけるを、いたく人騒がしからぬほどに、参りて書かれなば善かりぬべかりけるを、関白殿渡らせたまひ、上達部・殿上人など、さるべき人々参り集ひて後に、日高く待たれ奉りて参りたまひければ、少し骨なくおぼしめさるれど、さりとてあるべき事ならねば、書きてまかでたまふに、女の装束被けさせたまふを、さらでもありぬべくおぼさるれど、棄つべき事ならねば、そこらの人のなかを分け出でられけるなむ、猶懈怠の失錯なりける。
「のどかなる今朝、疾くもうち参りて書かれなましかば、斯からましやは」とぞ、皆人も思ひ、みづからもおぼしたりける。
「むげの、その道なべての下﨟などにこそ、斯様なる事はせさせたまはめ」と、殿をも誹り申す人々ありけり。

《現代語訳》
大宅世次「ご性格は怠け者で、ぐうたらと申し上げてもお差支えない方でした。
亡くなった藤原道隆様が二条院のお屋敷を建てられた際、襖に和歌の内容を絵に表したものをお書かせになりましたが、その色紙の形の中に書く和歌を、この佐理殿に命じられましたところ、人々が寝静まっている朝早いうちに参上して書かれたならば良かったはずなのに、道隆様がやってきて、上達部・殿上人などがお集まりになった後、皆をさんざん待たせた頃にいらしたので、少し格好が悪いとはお思いあそばしたけれど、とはいえ書かずにすませるわけにもいかないので、書いて退出なさる時に、道隆様が女性用の祝儀用の着物をお与えになりましたが、そんな事をなさらないでもとは思ったものの、捨てるわけにもいかないので、大勢の中をかき分けて出られるという目に遭われたのは、やはりご自身の暢気が招いた失敗でした。
“穏やかな今朝、早めに参上してお書きあそばしたら、あんなみっともない目に遭わなかったはず”と、誰もが思い、ご自身でもお思いになりました。“まったくの、書道専門の卑しい身分の者になら、このような祝儀の与え方をなさっても良いけれど”と、道隆様のことまで悪く申し上げる連中もおりました。」


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当時の最高権力者・藤原道隆(953年~995年)に、新築の屋敷の襖絵を頼まれるという栄誉に与ったにもかかわらず、佐理が遅刻をして恥をかいてしまった、という逸話である。
現存している彼の真跡は、不始末の詫び状や言い訳であることが多い。
さらに、その内容にも脱字や書き損じが見られることから、非常にルーズな性格だったことが伺える。
それでも、佐理が書家として名を残したのは、欠点を凌駕するほどの才能とセンスがあったからだ。
また、エピソードの中の失態を犯した佐理ではなく道隆を批判する人もいた、という文があることから、もしかすると、彼はその性格も含めて、人から「憎めない」と思われるような魅力を持っていたのかもしれない。

【参考文献】
・「大鏡(新潮日本古典集成/石川徹)」

(寄稿)河合 美紀

眠れないほど面白い大鏡① 「時平の笑い上戸」
大鏡② 「賢帝に愛され、中宮に嫉妬された女御」
大鏡④ 「天才貴公子・公任の失言」
大鏡⑤ 「藤原道長、妹の懐妊を疑う」
和宮親子内親王 副葬品の写真は誰のもの?

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