「大鏡」について、貴方はどれくらいの知識をお持ちだろうか。
いわゆる「四鏡(大・今・水・増)」のひとつであり、扱われている時代としては、「水鏡」に次いで2番目に古い、文徳天皇から後一条天皇にいたる14代176年にわたる宮廷、道長を中心とする藤原北家が中心となっている。
同時代に成立した「栄花物語」が編年体であるのに対し、「大鏡」は紀伝体。
作者は不明。
夏山繁樹と大宅世次という2人の老人が、雲林院での菩提講で若侍に歴史を語る、という形式だ。
しかしこの「大鏡」、単なる歴史書で終わらない。
中身を読み進めると、歴代天皇や藤原摂関家のちょっとしたエピソードが挿入されており、彼らは単なる歴史上人物ではなく、自分と同じ、血の通った人間なのだということを再認識できる。
そこで、「眠れないほど面白い大鏡」と題し、「大鏡」に収められた逸話とその魅力についていくつかご紹介していきたい。
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藤原芳子(?~967年)は、村上天皇(926年~967年)の女御。
藤原師尹と藤原定方女の娘。
宣耀殿女御と呼ばれ、昌平親王・永平親王を産んだ。
彼女は美貌と知性を併せ持ち、村上天皇から非常に寵愛された女性だった。
今回ご紹介するのは、そんな彼女の魅力を伝えるエピソードだ。
《原文》
御むすめ、村上の御時の宣耀殿の女御、かたちをかしげに、うつくしうおはしけり。
内裏へ参りたまふとて、御車に奉りたまひければ、我が御身は乗りたまひけれど、御髪の裾は、母屋の柱の下にぞおはしける。
一筋を陸奥紙に置きたるに、いかにも隙見えずとぞ申し伝へためる。
御目の尻の少し下がりたまへるが、いとどらうたくおはするを、帝いとかしこく時めかさせたまひて、かく仰せられけるとか。
生きての世死にての後の後の世も羽根を交せる鳥となりなむ
御返し、女御、
秋になる言の葉だにも変らずは我も交せる枝となりなむ
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《現代語訳》
(大宅世次)「師尹の娘(芳子)は村上天皇の宣耀殿の女御で、顔形が魅惑的で、可愛らしくいらっしゃいました。
内裏へ入内されることになり、お車にお乗せ申しましたら、ご自身のお身体はお車に乗っておいでなのに、髪の裾は御殿の柱の根元におありでした。
髪の毛一本を陸奥紙に置いてみると、何としても隙間が見えないと申し伝えられたそうです。
目尻が少し下がっていらっしゃって、一段とお可愛らしくお見えになるのを、帝はもう大変にご寵愛になられて、このように和歌をお詠みになられました。
“生きているこの世でも、死後やその来世でも、2人で比翼の鳥のように寄り添って暮らしましょう”。
女御はそれに対し、“秋になって私に飽きておしまいにならず、お言葉だけでもお変わりなければ、私も連理の枝となっておそばを離れますまい”と返歌なさりました。」
誇張表現も含まれているだろうが、彼女の髪の美しさ、そして垂れ目で可愛らしい様子だった彼女の容貌について述べた逸話である。
また、村上天皇の和歌と芳子の返歌に登場する「比翼の鳥」「連理の枝」という表現は、白楽天が著した「長恨歌」を引用している。
「古今和歌集」をすべて暗唱していた芳子の知性を感じることができ、彼女が単なる美女ではなかったことが伺える。
この他にも、「大鏡」は、芳子の魅力に嫉妬した中宮・藤原安子(927年~964年)の姿について伝えている。
2人が隣同士の局に侍っていた時、安子は心穏やかではなく、壁に穴をあけ、たいそう可愛らしく素敵な美人だった芳子の姿を覗き見て、「むべ、時めくにこそありけれ(なるほど、この美貌で寵愛されているのだな)」と腹が立ち、焼き物の破片を投げつけてしまったという。
摂関家の娘として入内し、冷泉・円融天皇をはじめ多くの子女に恵まれ、揺るぎない地位を築いた中宮が嫉妬するとは、芳子はいったいどれほどの美女だったのだろう。
ところが、彼女の栄華は長く続かなかった。
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中宮の死後、村上天皇から「なぜあんな女を寵愛したのか」と言われ、逆に寵を失ってしまったのだ。
理由は定かではないが、所生の皇子たちも夭折もしくは病弱であり、東宮になることはなかった。
どれも読者の想像をかきたててやまないエピソードだ。
【参考文献】
・「大鏡(新潮日本古典集成/石川徹)」
(寄稿)河合 美紀
・眠れないほど面白い大鏡① 「時平の笑い上戸」
・大鏡③ 「書聖・佐理のルーズな性格」
・大鏡④ 「天才貴公子・公任の失言」
・大鏡⑤ 「藤原道長、妹の懐妊を疑う」
・和宮親子内親王 副葬品の写真は誰のもの?
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