近藤秀用【井伊谷五近藤家の祖】

近藤秀用とは

近藤秀用(こんどう-ひでもち)は、近藤康用の子として戦国時代の1547年に生まれた。通称は近藤勘助、近藤登助、近藤平右衛門。
母は黒田久綱の娘、または鈴木六郎三郎の娘。

近藤秀用は徳川家康の家臣として、西遠江の案内役を務め、武田勝頼の侵入防止を担当し、長篠の戦いでも活躍した。

その後、姉川の戦い三方ヶ原の戦い小田原攻めなどで軍功を挙げ、特に小田原征伐では豊臣秀吉からも賞賛されている。

徳川家康の命であった為、それまで井伊直政の与力として働いてきたが、これまでの功績を元に、徳川家康の直臣になることを模索する。
しかし、井伊直政に相当妨害されたようで、ついには、井伊直政から暗殺されそうになり、出奔して伊勢へ逃れたが、これは徳川家康への反抗とみなされた。
※最近の研究では、弱体化していた井伊家の重臣は、直接徳川家康が人事を行っており、井伊直政も勝手な人事はできなかったようである。


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1600年の関ヶ原の戦いで奮戦した井伊直政が、その傷が元で1602年に死去。

すると徳川秀忠が近藤秀用を槍奉行として召し出し、上野・青柳に5000石を与えた。
娘は、米倉某の妻、小笠原権之丞の正室(のちに九鬼長兵衛の妻)、由良貞繁の正室となっている。

1603年には、池田輝政の仲介により、ようやく徳川家康の許しが出て、1614年、相模国内にて1万石に加増され、小田原城番となった。

大坂の陣でも武功を挙げると、1619年、遠州引佐郡井伊谷へ転封となり、15000石として井伊谷藩が成立し、大名に列する。
1621年、2000石が加増されたが、ここで近藤秀用は、17000石の所領を子の近藤季用(5400石)、近藤用可(3400石)、近藤用義(5000石)ら五家に分割譲渡したため、1代で大名家ではなくなった。

近藤秀用は1625年に石見守となると、1631年2月6日に85歳で死去した。
墓所は東京都文京区本郷の大安寺。

なお、旗本3400石となった近藤用可は、気賀近藤家として明治まで続いた。

父・近藤康用【井伊谷三人衆】についてはこちら

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