近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時【井伊谷三人衆】井伊家を支援した武将

井伊谷三人衆(いいのや-さんにんしゅう)は、浜名湖の沿岸部を有する領主たちで、近藤康用菅沼忠久鈴木重時の3人をさし、井伊家の被官でもあった。
比較的、今川家への忠節を重んじていたため、徳川家康は東三河の菅沼定盈に命じて調略を行った。
野田城主・菅沼定盈は同族の菅沼忠久を寝返らさせ、菅沼忠久が縁戚の鈴木重時を説得し、近藤康用まで取り込むことに成功した。

これにより徳川家康は、井伊谷から曳馬城へと攻め入り、浜松へ攻勢にでる事ができた。
のち徳川家康の命により、井伊直政の与力に加えられたが、いずれもあとで井伊家から離れている。


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近藤康用

近藤康用(こんどう-やすもち)は近藤忠用の子として1517年に生まれた。
通称は近藤勘助・近藤平右衛門で、初めは近藤信用と称していた。号は全功。

新城の野田城に近い、三河国八名郡宇利庄を領した父・近藤忠用と共に今川家の家臣であり、221貫文で井伊家の与力的立場になっていた。

弟妹は小林重次の正室、竹田法印定宜の正室、学禅(富賀寺住職)がいる。

正室は黒田久綱の娘、または鈴木六郎三郎の娘。
子・娘は近藤秀用、近藤用豊、近藤用成、近藤用忠、近藤用政、娘が中野三信(井伊掃部頭直孝の家臣)の妻、近藤用勝(和歌山藩・徳川頼宣の家臣)、娘が中川忠重の妻と多い。

桶狭間の戦いのあとも、井伊家と共に今川氏真に臣従したが、1568年に小野道好井伊谷城を占拠すると言う横暴もあり、井伊家が弱まると鈴木重時、菅沼忠久とともに徳川家康に従った。

近藤康用は戦での傷により、歩行が困難であったと言われており、1568年末からは嫡男・近藤秀用と共に出陣しているのが見受けられる。

小牧・長久手合戦からは井伊直政の軍勢に加わっている。
井伊直政は名将ではあったが、家臣に対して僅かな過ちも厳しく叱るような冷徹な一面があり、斬首することもあったので、近藤康用は井伊直政の家臣に加わった事を次第に後悔して行ったと言う。

1588年3月12日に井伊谷にて死去。73三歳。
井伊谷の龍潭寺に近藤康用の墓(供養塔)がある。

近藤康用の墓

なお、近藤康用の子・近藤秀用は、大坂の陣のあと、15000石にて井伊谷藩主となっている。

子である近藤秀用【井伊谷五近藤家の祖】についてはこちら

近藤家の本拠地は、野田城に近い宇利城(うりじょう)となる。

宇利城

1530年には、徳川家康の父・松平清康が宇利城を攻めており、今川勢の熊谷直利は激しく抵抗したが陥落したとある。
逃れた嫡男・熊谷直安は、奥三河の三河・黒川城を本拠にしている。

宇利城

宇利城より西には、近藤家の菩提寺・冨賀寺がある。

冨賀寺

下記のような立派な庭園もある。

冨賀寺の庭園

宇利城の戦いの際には、松平清康が裏山に本陣を置いたと言う。
下記は近藤氏の菩提寺となる冨賀寺の本堂。

冨賀寺の本堂

その冨賀寺の本堂から左手に入ったところに近藤家の墓所があった。

近藤家の墓所

近藤家の墓は、結構、新しい石墓に見えるので、明治に入ってから建て替えたものか?

菅沼忠久

菅沼忠久(すがぬま-ただひさ)は、三河長篠の菅沼家の分家で、遠江引佐郡都田(みやこた)の菅沼元景の子として生まれたが生年は不明。

通称は菅沼次郎右衛門尉(菅沼次郎右衛門忠久)
正室は鈴木重時の長女で、嫡男として菅沼忠道がいる。

下記は菅沼氏の居城だったと考えられる都田城址となる。

都田城跡

今川氏真の家臣であったが、桶狭間の戦い以降、今川家は弱体。

1568年、遠江への侵攻を画策する徳川家康の家臣・菅沼定盈から、同族の誼で誘いを受けて徳川家に離反。
さらに菅沼忠久が、鈴木重時や近藤康用も誘った。

1568年12月からの徳川勢の遠江攻めでは、堀江城の戦いに参戦している。

のち、井伊直政の与力を命じられたが、1582年に死去したとあり、井伊家の菩提寺でもある龍潭寺に葬られた。

子の菅沼忠道は井伊直政の配下として活躍し、関ヶ原の戦いでも戦功を挙げた。
菅沼忠久の弟の子・菅沼作左衛門重吉は、野田城主であった菅沼定盈の子・菅沼定仍に仕えている。
井伊谷の龍潭寺に菅沼忠久と菅沼忠道の墓(供養塔)がある。

菅沼忠久と菅沼忠道の墓(供養塔)

都田城址の場所だが、史料も乏しく非常にわかりにくい。
下記の地図ポイント地点から、畑の中に入って行った辺りが都田城跡と言う事になるが、発掘調査なども行われたことがないようで、案内板などは皆無である。

地図は縮尺を変えてご覧願いたい。
下記の写真にある農道から入ったところが都田城跡となる。

都田城跡

農道を入ったところは既に都田城(みやこだじょう)の城域だと感じるが、下記写真中央の茂みの中に一本の道が、南北に通っている。

都田城

その道を北に進むと、一段高くなっている場所があり、社が建っている。

都田城

その道を南に進むと、倒れかけている「都田城址」の木碑だけが存在した。

都田城址

年間を通じても、訪れる方はほとんどいないであろう、非常にマイナーな場所となる。

鈴木重時

鈴木重時(すずき-しげとき)は、柿本城主・鈴木重勝の子として1528年?に生まれた。

通称は鈴木三郎大夫重時で、正室は奥山朝利の娘。
子に鈴木重好と、鈴木重吉がいる。
また、娘が菅沼忠久の正室になっている。

1568年、徳川家康に寝返ると決めた娘婿・菅沼忠久から説得を受けて承諾し、徳川家康の遠州攻めを案内した。

1569年、徳川家康の命を受けて大沢基胤が率いる堀江城を攻めた。
この堀江城攻めの際には、近藤康用の子・近藤秀用との功績を争ったが、城門にたどり着いたところを攻撃されて、鈴木重時は討死した。
一説では42歳とされる。
戒名は、法福院殿清輝順光大禅定門。

なお、1572年、武田信玄の別働隊である山県昌景(山県三郎兵衛昌景)が柿本城を攻撃している。

柿本城

鈴木重時の子で、当主となっていた鈴木重好(鈴木平兵衛)はまだ14歳だったようで、伯父・鈴木重俊(鈴木権蔵重俊)の補佐のもと、三人衆から近藤石見守秀用、井伊飛騨守らがそれぞれ守っていた。

柿本城の本丸

下記は柿本城の本丸にある石碑。

柿本城の本丸

しかし、柿本城では防ぎきれず、満光寺の和尚を使者として山県昌景に遣わし、鈴木重好と鈴木重俊(鈴木権蔵)らは井伊直成(井平飛騨守)が守る井平城に合流するが、仏坂の戦いで敗れて鈴木権蔵は銃弾に倒れ討死している。

のち鈴木重好(鈴木平兵衛)は、井伊直政の家臣となり、数々の戦功を挙げた。


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しかし、1600年、関ヶ原の戦いで敗れた長宗我部盛親の本拠地・浦戸城の接取役を鈴木重好が担当するも「浦戸一揆」が勃発してしまい、のち1605年に井伊家から追放されている。
ただし、水戸徳川家に仕官すると、子孫は水戸藩の家老として5000石となった。

なお、鈴木重時の墓は、井伊谷・龍潭寺の井伊家墓所近くにある新野親矩(新野左馬助)の墓の「うしろ側」にある。
※下記写真の手前が新野親矩(新野左馬助)の墓で、その後ろ側が鈴木重時の墓。

新野親矩(新野左馬助)の墓

下記が龍潭寺にある鈴木重時の墓。

鈴木重時の墓

柿本城へは下記の写真地点から登る方法と、道の駅「鳳来三河三石」のすぐ脇にある満光寺から登る方法と2通りある。

柿本城への登城口

上記の登城口からは、本丸まで約10分であったが、坂は急なので、軽登山の装備があると良いだろう。

柿本城への登城口

私の場合は、トレッキングポールも持参した。

柿本城の山道

下記は、道の駅の北側にある鈴木家の菩提寺・満光寺。

満光寺

道の駅があるので駐車場の心配もないし、食事をしたりお土産を買う事もできた。

満光寺

以上、このページでご紹介した史跡がある場所は、オリジナルのGoogleマップで、その場所や駐車場情報も掲載させて頂いている。

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