大谷休泊 戦国時代に奇跡の開拓事業を成し遂げた偉大な農政家

大谷休泊




大谷休泊(おおや-きゅうはく)は、戦国時代の上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)で、大きな開拓事業を行った農政家です。
大谷は「おおたに」ではなく「おおや」と読むのでご注意を。
一般的には、ほとんど認知されていない人物ですが、東毛(群馬県東部)の治水や灌漑に力を発揮し、自然災害で貧窮していた農民たちを救った英雄として語り継がれています。
槍働きが目立つ戦国時代にあって、武勇ではなく内政で大成功を収め、名を残した大谷休泊。
その生涯と偉大な実績を見ていきたいと思います。


大谷休泊の生まれと関東管領の配下時代

大谷休泊は大永元年(1521年)の生まれとされています。
武田信玄と同い年です。

「休泊」は号で、通称を「新左衛門」といいます。

若かりし頃は、平井城を居城とする関東管領 山内上杉憲政(やまのうちうえすぎ のりまさ)に仕えていました。

しかし、天文15年(1546年)の川越夜戦により、上杉憲政は相模の北条氏康に大敗。
代々関東管領を担ってきた名門 山内上杉家は衰退の一途を辿ります。


それから約7年後の天文21年(1552年)、北条氏の勢いに抗し切れず上野・平井城は陥落。
上杉憲政は、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って越後(新潟県)に逃亡してしまいました。
主家滅亡により、休泊の進退も危ぶまれましたが、奉行職で戦に関わっていなかったことなどから罪に問われず、助命されたと言われています。

とは言え、主家が郷里を捨てて逃げてしまったのですから、休泊も領地を失ったことには変わりありません。

しかし、この時に大谷休泊に救いの手を差し伸べた人物がいます。
東毛(現在の群馬県館林市周辺)を領有していた由良成繁という戦国武将です。

なお、由良氏はこの時すでに北条氏の軍門に降っていました。
その由良氏の一門である「長尾顕長(ながおあきなが)」に、休泊は仕えることとなりました。

休泊の開拓事業

休泊が招かれた東毛の地は、北に聳える赤城山から吹き下ろす空っ風によって地面が乾き、作物が育ちにくい環境でした。
そういった環境の為、民衆たちの水を巡る争いも絶えず、治安も悪化していました。
当然、そこに暮らす民たちは困窮していたのです。

また、利根川と渡良瀬川という二つの河川にも挟まれた地形であり、川が氾濫すれば水害にも頭を悩ませる始末。
このような状況下で、主家の由良氏と縁戚関係にあった赤井氏から、「土地を開拓してほしい」と、休泊に要請がありました。


しかし、山内上杉氏に仕えていた頃から農政を担当していた休泊は、この土荒れた土地を豊かにする難しさを理解していたのでしょう。
膨大な費用、時間、人手が必要だと判断した休泊は、事業の難しさを赤井氏に粘り強く説明し、その覚悟を問うたと言われています。
結果、赤井氏も腹を括り、開拓事業のスポンサーとして、休泊をバックアップすることを決めました。

こうして休泊を総指揮とした開拓事業が永禄元年(1558年)に開始されたのです。
休泊この時37歳、働き盛りの年齢です。

東毛は赤城山から乾いた風が吹き下ろす土地柄だったため、地面が乾きやすく農作物が育ちにくい環境。
そこで休泊が行った事業が、風を遮るための防風林を作ることでした。

ところが、乾いた土地にいくら植林してもすぐに枯れてしまい、計画当初はなかなかうまく行かずに、近隣住民間らのバッシングも多かったと伝わっています。

しかし、休泊は諦めずに事業を継続。
苗木では成長に時間がかかる上、乾燥した土地ではすぐに枯れてしまうため、近隣の山から成長した松の木を根っこごともらい受け植林を進めていきます。
また、祠を造って松の成長を祈願したところ、事業が軌道に乗り始めたとも言われています。

このように、なんとか軌道に乗せることが出来たかと思ったのも束の間、時は戦国でありそう簡単に事は運びませんでした。
しかも、東毛は長尾氏と北条氏の係争地です。
戦災によって事業が頓挫することもありました。
さらには、事業をバックアップしていた赤井氏が、戦乱の最中で滅亡するという大事件も起こっています。

そんな中にあっても、奮闘する休泊の姿に心を動かされていた近隣住民たちは、事業の続行を強く望みました。
つまり、休泊の熱意が、計画当初はバッシングしていた民衆の心も動かしたのです。
こうして地域全体で休泊をバックアップする体制が出来上がり、多くの助けを借りながら植林を進めて行きました。


さらに休泊は、治水事業にも着手。
東毛を流れる利根川と渡良瀬川は、夏になると氾濫を繰り返す、近隣住民にとって悩ましい存在。
この2つの川に堤防を築き氾濫を治めつつ、さらには用水路を張り巡らすことで、農業を推進するとともに、防風林の乾いた土壌も潤すことになったのです。

休泊の最期と後世の残したもの

こうした紆余曲折を経て、天正6年(1578年)約20年の歳月をかけ防風林が完成。
植林した松は115万本、距離にして約12kmという壮大なものでした。

さらには、水路の総延長40kmとされる大治水事業も成功し、周囲の土地はたいへん豊かになったと伝わっています。

しかし、防風林の完成から間もない同年7月、休泊は突然の病に倒れ、約2ヶ月後に帰らぬ人となりました。

享年58

まさに、開拓事業に捧げた人生でした。

休泊が築いた防風林は、現在の群馬県館林市にある多々良沼の周辺だったとされ、その地域は「大谷原山林」と呼ばれています。
また、現在の多々良沼周辺は公園化されていますが、その周囲にはたくさんの松の木が生い茂っています。
これらの松は、休泊が植林した松の子孫と言われており、その植林事業を偲ぶことができます。

さらに、休泊が築いた用水路も「休泊堀」と呼ばれ、今も一部が利用されています。

休泊亡き後、民はその死をたいそう悲しみ、かつて休泊が植林成功を祈願した祠を「大谷神社」としてお祀りました。

荒れ果てた土地を、約20年の歳月を費やし見事に潤す開拓事業を行い、さらには上杉謙信と北条氏康といった強豪が激突していた激戦地にて、槍を持たずに大きな成功を収め、後世に名を残した大谷休泊。


彼の墓所は自身が潤した群馬県館林の住宅地の中に、県の指定史跡として大切に保存されています。
今も近隣の民に囲まれながら、ひっそりと眠っています。

(寄稿)拓麻呂

関東管領の上杉憲政とは 平井城と平井金山城

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