水谷正村の解説~結城四天王の一角を担った常陸の猛将

水谷正村





水谷正村とは

鎌倉時代の御家人・結城朝光から興った結城家は室町時代になると関東の有力守護大名として最盛期を迎えました。
そして、戦国時代では他勢力の台頭により衰退の一途を辿りますが、結城政朝を中心に大きく発展を遂げ、戦国大名として返り咲きました。



そんな政朝を支えたのが結城四天王たち。今回ご紹介する水谷正村(みずのや-まさむら)も結城四天王の一角を担い「負け知らずの猛将」と呼ばれていました。
この記事では、水谷正村の生涯や功績をご紹介し、正村の人物像について迫っていきます。

幼少期より勇猛だった正村

水谷正村は、大永4年(1524)に結城家家臣・水谷治持の嫡男として生まれます。幼少の頃より武勇に秀でていた正村は初陣の際に48の首級を上げる活躍をしました。さらに正村の武勇を不動のものとしたのは天文13年(1544)のことです。正村は結城領と宇都宮領の境付近に位置した中村城を攻略。その際に宇都宮家の5指に入る闘将・中村玄角を討ち取りました。この戦いは中村城の戦いと呼ばれています。
玄角は領民たちに慕われていたので、「畑に地しばり 田にひる藻 久下田に蟠龍なけりゃよい」(畑に地しばり、田んぼにひる藻という作物に害を与える厄介なもののように久下田に蟠龍斎がいると厄介なものだ)という草取り唄が中村の地で歌い継げられました。

他家と連携した手腕の持ち主

翌年には焼失した中村城の跡地に久下田城を築城し、自らが城主だった下館城には弟の水谷勝俊を配備します。そして、4月には中村城の戦いの報復として、宇都宮家家臣の武田信隆、玄角の嫡男・中村時長、八木岡貞家が攻めてきますが、撃退。武田信隆と八木岡定家を討ち取る戦果を残し勝利しました。この戦いは石島ヶ原の合戦と呼ばれ、正村の中村の地における優位性を示しました。



永禄9年(1566)には禁裏御料所回復の功績により、従五位下伊勢守に任命され、永禄12年(1569)には家督を勝俊に譲ります。その後正村は出家し、蟠龍斎と名乗りました。
出家後は勢力拡大を目論む後北条家に対抗するため、佐竹、那須、徳川と連携を取ります。

大名として独立を果たす

天正13年(1585)には田野城攻略に参加。攻略一歩手前の所で突撃を仕掛けてきた田野城城主・羽石時政と正村が遭遇したことで、一騎打ちとなります。この一騎打ちを制した正村は田野城攻略に成功しました。
翌年には主君の結城晴朝の名代として佐竹義重と宇都宮国綱による壬生氏討伐に参加しています。
天正18年(1590)の小田原征伐を経て、豊臣秀吉から独立を認められ、水谷家は大名として出世。正村は久下田城下で有名となっていた真岡木綿の木綿織を推奨し、舟運によって真岡木綿の物流網を開拓し、下館と久下田の発展に貢献しました。
その後正村は慶長3年(1598)に亡くなりました。



左眼に瞳が2つあった

正村の左眼は瞳が2つある重瞳で、非凡で尊いとされる「金骨の相」を持っていたことが記録として残っています。また、徳川家康からも「関東で蟠龍斎に勝る武将なし」と言われるほど実力を認められていました。

寄稿(拾丸)

下館城 水谷正村と水谷勝俊 不敗伝説を作った水谷氏
中村玄角・中村時長の解説~領民たちから慕われた宇都宮家家臣
久下田城(常陸・上館) 蟠龍斎が築いた常陸と下野の国境にある城
伊佐城 伊達氏発祥の地 伊達朝宗
山川館(常陸・山川城) 結城四天王・山川氏の本拠地
中村玄角・中村時長の解説~領民たちから慕われた宇都宮家家臣
その他「捨丸先生」の寄稿記事リスト

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投稿者プロフィール

幼い頃から歴史が好きで大学では歴史を本格的に学んでいました。
武将たちの隠れた素顔や生い立ちをわかりやすく伝え、それをきっかけに歴史を好きになってもらえたら嬉しいです。

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