毛利元就 謀神ならぬ優秀な経済戦略家

毛利元就

明治~大正期かけて活躍した土佐国(高知県)出身の詩人・随筆家の大町桂月(1869年~1925年)が著した『伯爵後藤象二郎』(1914年 富山房)という伝記がございます。

後藤象二郎(1838年~1897年)は周知の通り、江戸幕末期土佐藩の参政(筆頭家老)の要職に就き同藩を牽引し、かの坂本龍馬と共に大政奉還を成し遂げた後、明治期には農商務大臣(第9代)や逓信大臣(第2代)を歴任し土佐の元勲として活躍した偉人でありでありますが、後藤と同郷の桂月が後藤の遺業を偲ぶために書いたのが『上記の伝記』でございます。

その第3章の文中に、後藤および桂月の主筋にあたり幕末四賢公の一人に数えられる「山内容堂(諱:豊信 1848年~1872年)」、容堂の側近であった「小南五郎衛門(維新後に五郎と改名、1812年~1882年)」、そして幕末志士たちから尊崇されていた学者(水戸学)の「藤田東湖(梅庵とも 1806年~1855年)」の三者が酒宴の折に、戦国時代の群雄の評論が始まった場面が記されています。


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簡略にその一部を以下の通り紹介させて頂くと、
 
織田信長を深く尊敬していた容堂は、臣下の小南に「余を戦国群雄に擬えるのなら誰であろうか?」と問うと、小南は思い切って「恐れながら、『毛利元就』かと存じまする」と答えたら、容堂はそれに対してひどく不機嫌になり、その料簡の狭さに藤田が失笑し、容堂がより不機嫌となる、云々。

以上のような遣り取りが容堂・小南・藤田の三者の間で繰り広げられるのですが、面白いのが、信長大好きの容堂が『毛利元就』と擬えられて腹を立てるという場面でございます。
諸事豪放で英雄肌が強く華やかなイメージを放つ天下の覇者・信長に比べ、敵対勢力に対し暗殺や扇動など陰謀の限りを尽くし、一代で安芸国(広島県西部)の小規模の国人領主から中国地方(西日本最大)の覇者となった元就は華やかさどころか、「地味で陰湿なイメージ」が容堂には強烈にあったのでしょう。

歴史家の司馬遼太郎先生も自著『街道をゆく21 神戸・横浜散歩ほか』(朝日文庫)の「芸備の道」の文中内で、容堂が元就に擬えられたことについて触れられておられます。

『(容堂の)英雄崇拝という子供っぽい気分にとって、毛利元就などは陰気で地味でどこやら陰謀家くさい感じがして、およそ適わない人物であった。
が、容堂はとうてい元就の足もとにも及ばない。(中略)
もし容堂が戦国期の大名なら、5年を経たずに没落するにちがいない。
容堂が好んでいる信長も緻密な思考と計算を入念にやりつづけた男で、単に思いつきで行動を飛翔させたことはなかった。』

(「猿掛城の女人」の文中より)

司馬先生は上記のように、大名としての容堂の器量などは、天下の覇者・信長おろか中国地方の覇者となった元就にも遠く及ばないことを断言していますが、一方で元就が信長や豊臣秀吉に比べ、(容堂の例をとってもわかるように)世間での人気が低い原因は、『信長や秀吉のように、大衆にうける『照り』のようなものがなかったにちがいない。』(「同上」文中より)とも書いておられます。


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事実、元就自身も自分は英雄でたりえる人間ではないと強く思っていたようです。
有名な「三本の矢」の原典となった『三子教訓状(1557年)』は、元就が3人の息子(隆元・元春・隆景)に宛て書いた長い書状ですが、その第11条の文中で、元就は小勢力でしかなかった自分が、強者・大内を滅ぼし、山陽の大勢力になった自分自身の事を以下のように評しています。

『自分(元就)は、格別、心掛けが良い者でもなく、身体が頑強な訳でもなく、知恵や才能も人一倍あるでもない、特に優れた人物でないのに、難局を乗り切り、ここまでこれたのか自分も理解に苦しむ。誠に不思議なことである。』

よく言えば冷静にして謙虚。悪く言ってしまえば、卑屈、更に言えば、司馬先生のお言葉を拝借して譬えると、英雄に必要な明るさ、即ち『照りが無い』ないということになってしまうでしょうか。

筆者はこの第11条を読む度に、元就という大人物のチャーミングさ(弱み)を感じられて、この人物に愛着を感じるのですが、信長や秀吉では決して公言しないようなことを書き連ね、挙句の果てには『早く隠居したい』(同11条)と書く始末であります。
これでは戦国期を彩る大物の1人として形無しではありませんか、元就公!

毛利元就が主観的には自分の事を低く評していますが、元就・信長・秀吉の英雄たちに共通していることは、先ず「知略/政略に優れている(司馬先生は『慎重さ』と評しておられます)」という点であり、優れているからこそ戦国史に偉業を成し遂げられたのであります。

ゲームなどの創作の世界では、3者ともに智謀や政治能力値は、最大値を100にするならば90代という異常な高さで初期設定されているところでありますが、もう1点、共通点を挙げさせて頂くとすれば、『3者ともに優れた経済戦略家』でもあり、その戦略眼によって当時から貴重な経済資源であった金銀・鉄などが産出される鉱山、おるいは流通拠点(港など)を把握し、一大勢力に成り上がったという事であります。

信長は尾張国(愛知県西部)という当時から有数の穀倉および経済流通先進地帯に生まれ、更に父祖の代から津島・熱田などの湾港を抑えるなど経済感覚の鋭い家で育ったために、非凡な経済センスを必然的に身に付け、「楽市楽座」や「関所撤廃」などの商業経済活性化を大々的に敢行したのは周知の通りであり、その家臣として身を興し、主君である信長の政策や戦略を学び続けて天下人となった秀吉も、それまで各地方で成立していた経済流通制度を改革し、日本経済統一化のために「太閤検地」や「升の統一」を実施したことがあまりにも有名であります。

上記のように織田信長・豊臣秀吉の経済政策などは学校の授業で習うほど定着していますが、対して元就が経済感覚に優れていたという逸話などは、残念ながら世間一般的には知られていません。

何故ならば元就はどこまでも保守的な人物であり、元就独自の斬新的な政策や経済活性化を実施していないからであります。
また大勢力とはいえ国人領主の連合で成り立っている毛利氏では、信長のように強権的に斬新な政策を打ち出せるほどの権力を有していなかったのが原因かもしれません。

しかし、元就が経済感覚が信長や秀吉に比べ全く無かったかと言えば決してそうではなく、非凡な感覚を有していたことは明らかであり、あったからこそ一代で小勢力から中国地方の覇者へと成り上がれたのが大きな要因になっております。
寧ろ、代々安芸の山間にある吉田郡山の国人領主であり、格別な産業や経済拠点を有していない毛利氏の出身である元就であるにも関わらず、優れた経済感覚を養っていたという能力面では、経済拠点に恵まれていた環境で産まれ育った信長よりも一枚も二枚の上手であったのかもしれません。


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元就が、どのようにして優れた経済感覚を身に付けて国人領主・毛利を大毛利へと成長させていったのか?今回は「謀略家(謀神)」毛利元就としてでなく、「経済戦略家」の元就という人物を探ってゆきたいと思います。

前述のように、元就の毛利氏は安芸国中間部の山間地域の吉田荘(広島県安芸高田市)を本貫とした国人領主であり、その領土も貫高で表すと「3千貫(後の石高に換算すると約5万石)」程度の小規模な勢力であり、経済力(動員兵力)が極めて脆弱であったのかがわかります。
元就が誕生時や毛利本家を継いだ15世紀初めの安芸国内は、宍戸・天野・高橋・平賀・熊谷・佐伯(厳島神主)、そして吉川・小早川といった毛利と同等もしくは、それ以上の国人領主層が、正しく「一所懸命」を旨として、各々の盆地などに割拠している状態でした。

後にこれらの殆どの国人衆は、かつて同格であった元就が大勢力になったことで毛利氏の配下になるのですが、中でも元就の実兄・興元の正妻の実家であった高橋氏(後に元就滅ぼされる)、毛利両川として有名な吉川・小早川の両氏は、元就が毛利相続時(1520年代)は、毛利や他の国人衆より遥かに強力でありました。

高橋・吉川・小早川といった国人領主が、他勢力に比べ強力であった理由はやはり『経済力』にありました。
安芸北部および石見国(島根県西部)付近に勢力を張る山の吉川・高橋は、当時唯一と過言ではないエネルギー資源であった「木材(林業)」を豊富に有し、それを燃料として産出される「鉄」、即ち製鉄業を抑えていました。
特に、刀剣や甲冑、鉄砲などの武具、鍬鋤・鋸といった農具や大工道具を制作には絶対不可欠な鉄売買による利権は莫大である上、当時日本全国の主な製鉄産業は、出雲国(島根県東部)・備前国北部(岡山県北部)、そして安芸北部といった山陰地方に限定されていました。

それら地域で生産された大量な鉄は、古来より全国主要海運ルートであった日本海航路によって、出雲および石見の主要湾港を通じて全国に運搬されていったのであります。
後年、元就は毛利以上の勢力であった高橋を討滅(1529年)、次いで一族と新参家臣との内紛で混乱している吉川に次男・元春(1530~1586)を送り込み謀略で乗っ取る(1547年)ことによって木材・鉄といった「山の経済力」を手に入れていったのであります。因みにこの「鉄」と「日本海流通ルート」を把握して、一大勢力を成していたのが、出雲守護代から戦国大名へと転身した『尼子氏(経久・晴久)』であります。
現在でこそ山陰では、人口減少の過疎化が深刻な問題になってしまっていますが、当時の山陰は製鉄によって繁栄していた一大工業地帯であったのであります。

「山の経済力」を根幹として、毛利氏を上回る勢力を誇っていた同氏外戚であった高橋・吉川に対し、瀬戸内海に接する地域を根城としていた小早川氏は『海の利権』を抑えて勢力を誇っていました。
海の利権とは何か?それは『海上交易』と、その交易に従事する人材の『水軍の力』であります。
瀬戸内海も古代より中国大陸や朝鮮(戦国期には南蛮交易も加わる)~畿内間の『海上交易の大動脈』でありましたが、それに加え平安末期の英傑・平清盛(六波羅入道、1118~1181)によって航路や湾港の整備されたことにより、多くの船舶が行き交うようになっていました。

その瀬戸内海に接する沼田・竹原の両荘(広島県三原市)を本拠としていた小早川も領内に湾港を有している上、室町期から徐々に水軍としての勢力も蓄えており、海から得られる恩恵は大きなものでした。
因みにその小早川が握る海上利権を遥かに上回る規模の海の利権を有し、元就(毛利)や小早川をはじめ多くの安芸国人衆を傘下に治めて、山陽で西日本最大の勢力を保持していたのが、周防長門(山口県)を本貫とする鎌倉期以来の名門戦国大名『大内氏(義興・義隆父子)』でありました。


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陸地から産出される鉄や木材で経済力を蓄え、一大勢力に成り上がった山陰の尼子に対し、山陽の大内は、大陸交易の玄関口(周防長門)という地理的好条件および瀬戸内海や水軍を傘下に治めるという海上経済流通で君臨していたのであります。中国地方の戦国初期は、尼子と大内という2大勢力によって構成されており、元就などは、その両勢力の下で右往左往するだけのちっぽけな道端を屯する虫の存在でしかなかったのであります。
しかし、その虫みたい誰からも注目されないような安芸吉田荘に拠る零細な領主・毛利元就が、合戦や政略で右往左往する内に安芸国内や隣国の備後国(広島県東部)をまとめ上げ、戦国大名へと成長し、遂には大内・尼子という2大勢力を一代の内に滅ぼし、中国地方の覇者となり、天下の覇者である信長・秀吉、徳川家康から一目も二目も置かれる存在になってしまうのですから、歴史、人間の力というのは不思議であります。

(閑話休題)
 
小早川も元就が毛利当主として安芸国内で苦闘の日々を送っていた時期(1540年後半)になると、当主の夭折や山陰の尼子氏の圧迫などの問題が頻発し勢力に翳りが見えはじめるようになり、その状況を見計らって元就は、当時まだ12歳であった三男・隆景(1533~1597)を、先ず分家筋の竹原小早川氏の当主として送り込み(1543年)、後には本家である沼田小早川の病弱当主であった繁平を大内氏の後援を得て強制隠居させ、親繁平派の家臣団を粛清した上で、隆景に小早川本家の当主にさせる(1550年)によって、元就は衰微したとはいえ、海の利権を握る小早川を毛利の配下に治めたのであります。

小早川を傘下に組み込んだことによって元就は海上交通から得られる恩恵ばかりでなく、当時、日本国内最大の水軍勢力・村上水軍とのコネクションも持つことが可能となりました。
このことが、元就の大飛躍の舞台となる「厳島合戦」(1555年)の勝利に繋がってゆくことになるのであります。

以上のように、元就は、情勢を上手く見極め巧みな政略を展開することによって「海の小早川、陸の吉川」の両川を毛利傘下(味方)に組み込むことによって、国人領主から戦国大名へと勢力を伸張していったのでありますが、元就が両川の乗っ取りが成功できたのは、西国最大の戦国大名であった大内氏が控えていたことが一番大きな理由であり、元就は安芸国内の大内氏の総代官的立場を利用して、安芸次いで隣国の備後国(広島県東部)の国人衆を味方に付けて勢力を徐々に蓄えていっているのであります。

以下の事は筆者の拙い想像なのですが、元就にとって大内氏は強力な後ろ盾だけでなく、山間の田舎国人にしか過ぎなかった元就に優れた経済感覚を教え込んだ、いわば元就にとっての師匠格のような存在であったと思うのであります。

前述のように、大内氏は当時、最新技術や文化(中国朝鮮および西洋諸国)の玄関口であった周防長門を拠点に海外貿易で巨万な富を築き、最
盛期には山陽および北九州にも勢力を伸張したほどの戦国大名でした。
大内へ臣従していた時期が長かった元就は、同氏に積極的に接することにより、元就は経済戦略家としての洞察力を磨いていったに違いありません。
また嫡男・隆元(1523~1563)を大内への人質として山口へ送ったのも結果的に良かったと思われます。

大内氏の本拠である山口は、戦国期当時から「西の京都」と謳われるほど文化水準が高く殷賑を極めた地であり、隆元は同地で長く暮らすことによって、父・元就が呆れるほど、文化芸能に通じる教養豊かな人物となったのは有名でありますが、隆元が身に付けたのは何もそれだけでなく、商売上手の大内氏で育ったために優れた内政・財務能力を身に付け、後の毛利氏の繁栄に陰ながら貢献しています。
『毛利家文書』では、隆元が元就に先立って死去した後、毛利氏の毎年歳入が2000貫(約4000石)が減少し、毛利の面々は故・隆元の能力の高さを改めて知ったという逸話もまた有名であります。
 
以上は筆者の拙い想像を、多々と書き連ねさせて頂いた次第でありますが、元就たち毛利氏の人々にとって大内氏は、軍事外交面のみに留まらず、経済面でも偉大なバックボーンであったことは事実であり、元就が後々の大飛躍の基盤を築けたのも大内の力はとても大きかったのです。

事実、元就は大内の力を背景に勢力を伸ばした挙句、大内義隆を大寧寺の変(1551年)で滅ぼし、大内氏の事実上の統率者であった重臣・陶晴賢(1521年~1555年)を厳島合戦で討ち取り、2年後の1557年には大内を滅ぼし、それまでの領国の安芸備後に加え、防長の2ヶ国も支配下に治め、一躍、山陽地方の大勢力に成り上がったのであります。


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毛利元就の登竜門のような存在となっている「厳島合戦」。
元就が劣勢を覆すために様々な謀略や下工作を展開して、大軍の陶晴賢(大内軍)を鮮やかに撃退したいう、いわば謀神・毛利元就としての面目躍如の大舞台となっていますが、実はこの名合戦には『もう1つの側面(合戦の起因)』があり、寧ろこの側面こそが、厳島合戦の主因となっていたと言われています。それはズバリ『経済』。
元就と晴賢が厳島を舞台に戦ったのは、実は厳島が当時、『瀬戸内海の最重要経済拠点』『宝の島』であったからであります。
今度は、その宝島・厳島の支配権を巡って繰り広げられた厳島合戦について探ってゆきたいと思います。

(寄稿)鶏肋太郎

毛利元就の大躍進『厳島の戦い』は、経済拠点争奪戦でもあった
戦国随一の名将「武田信玄」が苦杯を舐めた経済的不利とは?
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