武田信玄が死去した場所は諸説ありますが、長篠から甲斐への帰路、その経路上の三州街道で亡くなったとする説としては、根羽(ねば)、平谷(ひらや)、浪合(なみあい)の3個所があります。
そのうち根羽村の横旗には武田信玄の墓として信玄公の五輪塔である「信玄塚」があると言うことで、行って参りました。
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病が重くなり、三河・鳳来寺にて肺肝の療養をした武田信玄ですが、病状が悪化したため、野田城攻略を辞めて武田勢は帰路につきます。
途中、立ち寄ったかは不明ですが、恐らくは、伊奈街道にて田峯城、設楽(田口)の福田寺、津具を経由して、三州街道の根羽、平谷、浪合、駒場へと帰還したと言うのは間違いないでしょう。
根羽にある信玄公の五輪塔「信玄塚」は、現在の国道153号線沿い、根羽を過ぎて平谷高原スキー場がある治部坂峠へ登っていく坂にあります。
すみません。
写真に写ってしまっている白いものは「雪」が降っていたためです。
この辺りの地区名は「横旗」で、名前の由来としては、武田信玄の病が重く、悲しみのうちに風林火山の旗を横にしたため、この名称になったと言われています。
伝承としては、江戸時代に入った寛文12年(1672年)に甲斐の塩山にある乾徳山恵林寺で、信玄公100年の法要が営まれた際に、武田家の縁者が終焉の地と言う事で、五輪塔と宝篋印塔を建立したと言われています。
甲陽軍艦には、元亀4年(1573年)4月12日に「ねばねの上村と申す所にて御他界」とあり、現地の案内板には、宝篋印塔の型式などは、室町時代末期と考えられるとあります。
根羽村の江戸末期の記録「根羽七宮廻り」には、古老の話として「大暑なれば死骸こらへず、ここに埋めて旗印を立て」との記述もあります。
そうなると福田寺にて死去し、横旗に埋めたとも考えられます。
ただし、昭和59年の発掘調査では、深さ2mの地中に墓擴が確認されましたが、遺物は見つからなかったようです。
なお、信玄塚と地元で呼ばれている墓石は別にあり、国道の東側を下がったところにあるそうです。
さて、信玄塚がある場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。
地図は縮尺を変えてご覧願います。
国道はスピードが出ている車が多く危険ですので、クルマは脇道(駐車禁止ではない)に止めましょう。
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