西尾宗次(西尾仁左衛門、西尾久作)の父は宮地久右衛門。初め宮地久作、後に西尾久作と称した。
父・宮地久右衛門が遠江の浪人・西尾是尊の養子となると、子の西尾宗次は遠江・高天神城の戦いなどで徳川勢として功を上げ、1593年に関東の結城秀康に仕えて鉄砲足軽となった。
1601年に鳥銃頭(鉄砲頭)700石となる。
関ヶ原の戦い後、結城秀康(越前松平家)が越前北庄67万石に移封されて福井城の築城を開始するとこれに従い、1615年、大阪夏の陣では第2代の松平忠直の鉄砲組頭として従軍し、13の首級をあげたとされる。
中でも安井神社にて休息中の真田幸村の首級をあげたことで、松平忠直からは刀などを賜り、徳川家康より謁見を許され、1800石を拝領した。
この時、既に疲れ果てていた真田幸村は「自分の首と秀頼様からいただいた采配を添えて高名にせよ」といって抵抗しなかったと言う。
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徳川家康の元に首が届けられた首実検では、真田信尹が呼ばれるも、信繁の首と断言できないと回答。
ただし、西尾宗次が持ってきた首が、真田幸村の「鹿角の兜」を被っていたことから、真田幸村の首だと認定された。
その後、その場にいた諸将は真田信繁の武勲にあやかろうと、首から遺髪をこぞって取り、お守りにしたと言われている。
その一方で、西尾宗次(西尾仁左衛門、西尾久作)の大手柄は、真田左衛門佐(真田幸村)ほどの武将が、西尾程度の者に討たれるはずがないとささやかれ、たまたま通りかかって既に亡くなっていた大将首を拾ったところ、あとで真田幸村だとわかったなどとも言われ、信用されなかったと言う。
また、自身の功績を誇張して報告したなど、どのように討ったか話さなかったなどの理由から、徳川家康の不興を買い、褒美を貰えなかったという逸話もある。
平和な江戸時代となる前の最後の大きな合戦で、あまりにも有名となった英雄の首を持ち帰ったばかりに、妬まれたり、苦悩もあったのだろう。
故郷に戻ると、真田幸村を供養する為、孝顕寺に真田幸村の鎧袖(よろいそで)を埋めて「真田地蔵尊」を建立し、1635年に生涯を閉じた。
現在、真田地蔵は福井市立郷土歴史博物館に展示されている。
なお、西尾家に伝わる古文書によると、首も一緒に故郷に持ち帰ったようで、鎧袖を埋めた場所とは別の場所に首を埋めたとあり、その場所は真田一族に首を奪還される名折れを防ぐため、西尾家だけの秘密になったと言う。
2016年夏に新たに発見された史料では「真田に出会い、槍を合わせて討ち取り、天下様に首を差し上げた」という西尾久作の覚え書きが見つかっている。
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