松平信光とは 徳川天下統一の礎を作った英雄

松平信光




松平信光(まつだいら-のぶみつ/しんこう)は松平宗家3代目当主であり、松平家が三河一帯に勢力を伸ばすきっかけを作った人物です。
松平信光の父は2代目当主・松平泰親(まつだいら-やすちか)と言われていますが、初代の松平親氏(まつだいら-ちかうじ)の子とする書物も存在します。

松平親氏像

生年は応永11年(1404年)と言われていますので、応永の乱が終わり、約10年の間戦乱が途絶えた「応永の平和」と呼ばれた最中での誕生でした。
松平郷を拠点として中山七名を従属させた松平氏でしたが、いずれも山間の地だったため平野部の進出を目論んだ松平泰親は応永28年(1421年)中根大善を滅ぼした後、岩津城を築いて平野部進出の足掛かりにすると共に、矢作川上流を押さえ経済活動の拠点にもしました。
有力国人領主となった松平氏は室町幕府執事の伊勢氏に仕え、松平信光は当主の座を得ると幕府との関係を保ちたながら勢力拡大への基盤を整えていきます。

額田郡一揆

長禄2年(1458年)駿河守護の今川氏の分家にあたる関口氏が支配していた岩略寺城を攻め落とし、東海道に隣接していた支城の長沢城に十一男の松平親則を配し一帯を支配させ、3年後の寛正元年には、敵対してきた幕府奉公衆である保久城(ほっきゅう-じょう)の山下庄左衛門と、その縁戚関係にある大給城(おぎゅう-じょう)の長坂新左衛門を倒し、大給城には三男の松平親忠(まつだいら-ちかただ)の次男、松平乗元(まつだいら-のりもと)を入れます。

寛正6年(1465年)三河額田郡で起きた反幕府・反守護に対する一揆が勃発。
世にいう額田郡一揆の始まりです。


当時の三河は将軍家の一族である吉良氏が東条と西条に分かれて抗争を繰り広げ、応仁の乱によって三河守護を追われた一色氏の残党と、新たに守護となった細川氏との争いなどもあり、混乱の極みにありました。
その中で、深溝城(ふこうず-じょう)の大場次郎左衛門、丸山の丸山中務入道らを中心とした足利氏の被官が井ノ口城に立て籠もり、鎌倉殿(古川公方)の命として主要街道を封鎖。京への租税物などを奪い取る暴挙に出ます。
これに対し室町幕府は三河守護の細川成之に一揆の鎮圧を命じ、有力国人である岡崎城の西郷氏や牛久保城の牧野氏らに命じて井ノ口城に対して三日三晩包囲攻撃をした末に落城させるも、大場次郎左衛門や丸山中務入道らの首謀者は全て逃亡してしまいます。
一説によると、この攻城戦での死傷者は非常に少なく、幕府や朝廷から来るの支配者の権力に対し国人衆が裏で手を結んで対抗しようとしたとの説もあり、戦い自体お互いを傷つける気は無く、守護の細川氏に対しての言い訳が通用すれば良いと言った程度の物だったとも言われています。

井ノ口城

自領に戻った大場氏らは依然として抵抗を続けますが、細川成之は一揆衆の背後に幕府政所執事である伊勢貞親の配下で勢力を拡大しつつある松平信光とその娘婿の戸田宗光(とだ-むねみつ)がいると考え、貞親を通じて将軍家に請願を出し、8代将軍足利義政の命として信光と宗光の両名に一揆鎮圧の役割が下されます。
幕命を受けた松平信光は深溝で大場次郎左衛門を討ち取り、戸田宗光は大平で丸山父子らを倒すなどして一揆は鎮圧。
首謀者の首は京都に送られました。

論功行賞と勢力拡大

額田郡一揆の鎮圧は幕府の命を受けて行われた物だったため、岩津城から松平郷の山間部を支配していた松平信光は恩賞として五井(ごい:蒲郡市五井)、深溝(ふこうず:幸田町深溝)、形原城(かたはら:蒲郡市形原)、竹谷(たけのや:蒲郡市竹谷)の地を拝領し、数多くの息子の中から五井城には七男の松平忠景(まつだいら-ただかげ)、深溝城は忠景の次男である松平忠定(まつだいら-たださだ)、形原城に四男の松平與副(まつだいら-ともすけ)、竹谷城には長男の松平守家(まつだいら-もりいえ)を配して、西三河一帯に支配権を拡大。
上野上村城主であった娘婿の戸田宗光は三河田原の地を所領に加え、東三河一帯と三河湾沿岸を支配する豪族へと成長しました。


応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発。三河国では東軍に属する細川成之と東軍の一色義直が激戦を繰り広げます。
松平信光は東軍の細川氏に属しながら戦いを続け、平野部の拠点である岡崎と安城を支配下におくため、まずは文明3年(1471年)和田親平が住む安翔城(安城城)に謀略を仕掛けます。
安翔城から北に2km程の所に位置する西野(現在の新田町近辺)で鼓や鐘を鳴らして若者に踊りを躍らせると、安翔城の兵士達が見物に出た隙に城を陥れる事に成功します。
この踊りに関しては若い女性だけを躍らせて兵士をおびき出したと言う説や、念仏踊りを躍らせたと言う説などもありますが、いずれにせよ浮かれ騒ぎを起こして留守を襲った事は事実のようですので、城主の油断に他なりません。

安翔古城

なお、和田氏が拠点とした城は安翔古城と言われており、現在の安翔城は和田氏の居館として使用されていたようです。
松平信光は三男の松平親忠(まつだいら-ちかただ)を安翔に入れ、この居館を整備して城としての機能を充実させていったと考えられています。

安城を手に入れた松平信光は岡崎の西郷氏に圧力をかけ、五男の松平光重(まつだいら-みつしげ)を西郷頼嗣の娘婿として入嗣させ岡崎城一帯も支配下に置く事に成功します。

血族による支配 ~十八松平~

応仁の乱末期の文明8年(1476年)細川成之の三河守護代を務めた東条国氏が一色氏との戦いに敗れ自害。
翌文明9年(1478年)には東条国氏の後継者にあたる東条修理亮が京都屋敷を一色氏に攻められ、一族郎党共に奈良へと落ち延びると言った事件が勃発。
これらの事件により面目を失った細川成之は幕府への出仕を取り止めてしまいます。
応仁の乱が終結した後も細川氏と一色氏の対立は止まず合戦を繰り広げていましたが、三河で一色時家が牛久保城の波多野全慶(はたの-ぜんけい)により討ち取られたため、一色義直は三河を放棄し軍を撤退する事になり、細川成之は幕府へ再出仕しますが三河守護には任命されなかったため、三河国は松平家を始めとした国人が割拠する事になりました。

『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁』によると松平信光には48人の子女がいたと言われており、上記以外にも能見城(のうみ-じょう)、牧内城(まきうち-じょう)、丸根城(まるね-じょう)、船岡城(ふなおか-じょう)などの各城に息子を配して支配地域を拡大。
宗家4代目を継いだ安翔城の松平親忠もこの手法を踏襲し、後に十八松平と呼ばれる諸家が確立され、徳川家康が天下を統一するまでの大きな力となりました。


井ノ口城
岡崎市井ノ口町楼68(稲荷神社)

安翔古城
安城市安城町社口堂(社口社)

(寄稿)だい

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査・研究している歴史人物研究家です。
自慢できるものはありませんが、資格は史跡訪問のための国内旅行地理検定2級、水軍研究のための小型船舶操縦士1級など。

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