まずは相模・新井城(あらいじょう)の生い立ちからご紹介したい。
鎌倉幕府創設に多大な貢献をした三浦氏であったが1213年、新井城からも程近い和田城を領し、幕府の侍所を努めていた三浦一族の和田義盛が和田合戦で執権・北条義時に敗れるなど、執権・北条氏はしだいに三浦氏を追い詰め、ついに1247年、宝治合戦で執権・北条時頼に三浦泰村らが敗れて、三浦一族は法華堂に逃れ、主な者260人、都合500余人が自害。ついに三浦氏は滅亡した。
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宝治合戦において、三浦一族でありながら北条時頼に加勢した佐原盛時が「三浦介」の名を継ぐことを許され、三浦半島南部を領した。
佐原盛時は矢部禅尼の子で以後、三浦介盛時を称し、新井城を本拠にしたと言う説があり、この頃新井城が使われるようになったようだ。以後、代々三浦一族が新井城に居城した。
南には油壺湾など三方を海と切り立った断崖に囲まれた、細い半島の先端付近の自然地形を生かした堅城であり、穏やかな海は三浦水軍の運用にも適していた。
井と言う文字が付くことからも、井戸もあり、水には困らなかったのであろう。
新井城落城にまつわる伝承
三浦義意は85人力の剛士と言われる。伊勢勢はこの三浦義意の武勇を恐れていたとされ、三浦勢が城を撃って出て、三浦義意が向かってくると逃げる始末。そんな中、勇敢に躍り出た4人の武者がいた。
結局、三浦義意に討たれそうになると、三浦義意の父・三浦道寸が「ちょっと待った!敵ながらアッパレなる振る舞いぞ。」と発し、4人が切られるところを生かして逃がせたと言う。
その後、三浦義意は父の切腹を見届けた後に敵中に突撃して21歳の若さで討死した。
三浦義意の首は飛んで小田原の海岸の松の枝に掛かり、目は逆さまに裂け、3年の間はそのままだった伝わる。
4人の伊勢勢の武者は三浦義同・三浦義意父子の死を痛んで、数年後、新井城を訪れ、三浦同寸の義侠に報い自害して果て、馬とともに葬られたと言われ、その地は「義士塚」として現在に伝わる。
また、新井城落城の際かどうかは不明だが、新井城に伊勢勢が迫った際、三浦道寸の側室が、逃げる途中「なも田坂」の下の小川に掛かる橋で死産し、自らも自害したと伝えられている。
豊臣秀吉の小田原攻めにより、三浦道寸を滅ぼした北条家の子孫の北条氏政も1590年の同じく7月11日虎の刻に切腹していることから「道寸怨霊の祟り」 と北条五代記には記載されている。
三浦道寸の墓と三浦義意の墓
三浦道寸の墓へお参りして参りました。
三浦道寸の墓(三浦義同の墓)へは油壷マリンパークの玄関正面から右手に進みます。
すると駐車場と同じ台地に「三浦義意の墓」がまずあります。
上記は三浦義意です。三浦義意は三浦道寸(三浦義同)の子ですね。
三浦道寸(三浦義同)の墓は、横堀海岸へと降りて行く坂道の途中から入ります。
下記の地図ポイント点がその場所です。
坂の途中から新井城の痕跡であろう「郭」のように突き出た岬に向かって行くと、その先端に三浦義同の墓があります。
道も整備されていて、ヤブなどもないので夏場でも安心です。
下記が三浦道寸の墓です。
実際には供養碑と考えられますが、どうも、宮内庁が管理している土地のようです。
その傍らには、花が手向けられている小さな墓石もありました。
太平洋戦争時には回天の特攻基地
昭和20年、東京帝国大学臨海研究所を本部として、横須賀鎮守府所属、第1特攻戦隊、第11突撃隊(藤田部隊)の基地が油壷湾におかれました。
第11突撃隊は、第1~3海龍隊(36隻)、第14回天隊(6隻)、第27、56震洋隊(100隻)に 編成され、各舟艇は、油壷湾、小網代湾、諸磯湾、江奈湾の湾岸に掘られた洞窟に格納されたと言います。
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さて、新井城や三浦道寸の墓を見学する場合の「駐車場」ですが、油壷マリンパークの駐車場が自動料金ゲート式で1日700円。
下記の地図ポイント地点の有料駐車場「油壺駐車場」(三浦市営駐車場)は、駐車料金1日510円となります。
路線バスで訪れた場合にもこの市営駐車場がある場所が終点となります。
※当たり前ですが、駐車料金は改定される場合がありますので、ご容赦を。
※地図は縮尺を変えてご覧願います。
・三浦道寸(三浦義同)~三浦義同と三浦氏
・三浦義同(三浦道寸)と相模・岡崎城の遺構~岡崎四郎義実の墓
・相模・和田城 鎌倉幕府別当・和田義盛の居城
・新井城(洗井城)のみどころ【城旅人】新設
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