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戦国時代には武士の身分を捨て、山伏として生きた人物がいました。その者の名前は司箭院興仙(しせんいん-こうせん)です。
平安時代に武士の身分を捨て僧侶として生きた西行法師を彷彿とさせる戦国版世捨て人、興仙の謎めいた生涯を今回は紐解いてみました。
修業の末、飛行術を会得
興仙は安芸宍戸家の一族で、本名は宍戸家俊(ししど-いえとし)でした。父に常陸宍戸家の出身から安芸宍戸家の当主になった宍戸元家、養父に興仙の兄である深瀬隆兼(ふかせ-たかかね)を持っていました。
そして、隆兼が所持していた深瀬城と祝屋城の城主を隆兼から任されますが、愛宕信仰に傾倒していた興仙は山伏の服装で修業に明け暮れてしまいます。
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その結果、興仙は空を飛ぶ術を身に付けることができました。
時の権力者、細川政元に仕える
その後興仙は明応3年(1494)、安芸から京都へ上がり鞍馬寺へ滞在します。この時から興仙は天狗の法を行う者として話題となっておりました。この話題を聞きつけた唐橋在数(からはし-ありかず)は東福寺の僧たちと興仙の元へ行きます。
するとそこには明応2年(1493)に明応の政変で細川政権を築き上げた細川政元がいました。政元は空を飛べる術を得るために修業に熱中するくらい修験道に凝っており、興仙が空を飛べる術を会得していたので、それを享受してもらうために鞍馬寺へ出向いたと考えられます。
また政元は天狗の法を会得した興仙の才能を高く買っていたので、これ以後興仙は政元の近習として仕えることになります。
政元の元で興仙は主に公家たちと政元を取り次ぐ役割を行っていました。
それを裏付けるのは永正元年(1504)の時で、三条西実隆が山城国内における三条西家の所領に関した訴訟を円滑化させるために、興仙を通じて政元に働きかけたという内容が『実隆日記』に残っています。
このことから興仙は細川政権内で絶大な権力を持っていたことがわかります。
そして、永正3年(1506)には興仙は出家しており、『実隆日記』には僧正として興仙の名が記されています。
政元死後の興仙
その後、永正4年(1507)に政元が香西元長・薬師寺長忠らによって暗殺される(細川殿の変)と安芸国へ戻ります。そして興仙は源義経を遠祖とした武術を由利正俊から学び、その武術から薙刀術や剣術を編み出しました。
その武術は薙刀術を「司箭流」、剣術を「貫心流」と呼ばれています。
元亀元年(1570)になると、興仙は司箭流と貫心流、今までの修行で体得した天狗の法を河野通昭に伝授し、京都の愛宕山へ飛び去っていきました。
その時は100歳を越えていても可笑しくない年齢だったのにも関わらず、肉体は若々しかったといわれています。
寄稿(拾丸)
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