令和元年(2019年)の大規模火災で首里城が焼失するニュースが日本中を駆け巡ったのは今も記憶に新しく、遅ればせながらもお見舞い申し上げます。
首里城は琉球王国時代、そして日本に組み込まれた近代以降もたびたび線化や火災に見舞われていますが、戦国末期から江戸期にかけての乱世において首里城を戦火から守った人物がいます。
それが、本稿の主人公・尚寧王(しょうねいおう)です。
尚寧王は1564年、第二尚氏王統に属する王族・尚懿(しょうい)と、妃・首里大君加那志長男として生まれ、幼名を思徳金と言います。
尚寧王が即位した背景には先帝の尚永王に世継ぎの男子がいなかった事があり、その長女を妻にしていた尚寧王が1589年に新たな王になりました。
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しかし、その治世は隣接する日本本土の戦乱の余波を受け、安泰なものとは言えませんでした。
尚寧王が即位する前年から豊臣秀吉は琉球が服属していないことに対して恫喝する内容の上意を発し、1591年にも朝鮮出兵の軍役負担を強く求められた際には、この当時は友好的な間柄にあった島津氏が肩代わりするなど、琉球を取り巻く環境は不穏なものだったのです。
徳川の天下となっても日本と琉球の対立はやまず、朝鮮出兵後に日明関係の修復をする仲介をめぐる問題をはじめ、貿易権の独占をもくろんだ島津氏による朱印貿易をめぐる対立など、様々なトラブルが両国間に残っていました。
当時の日本側の記録によると、琉球船を保護して送還させた徳川家康への謝恩使を派遣しないばかりか、琉球の役人が島津側の使者を辱めた態度をとったために琉球征伐に至ったとしています。
いずれにせよ、こうした紛争が蓄積されたことで幕命と言う侵攻の大義名分を得た島津氏(かねてから南進による基盤固めを計画していたとも言われる)による遠征軍が琉球に派遣されたのでした。
総勢3000、船80艘あまりを率いる大将に樺山久高、副将に平田増宗が任命され、薩摩軍は琉球の支配下にある諸島を攻めます。
奄美大島は戦闘もほとんどなく降伏し、抵抗した徳之島も難なく制圧した薩摩軍による進軍は続き、本島では薩摩側による放火や抵抗を試みる琉球の官吏・武将らによる小規模な戦闘があったものの王府による全面抵抗はなく、首都や首里城が戦火の憂き目を見ることはありませんでした。
結果、薩摩の船が那覇に入って琉球側から日本遊学の経験がある僧・菊隠宗意と尚寧王の弟である摂政・具志頭王子らが列席して和睦が行われ、1609年の4月1日に琉球は降伏したのです。
尚寧王は同月の16日に樺山・平田2名と対面し、5月15日に鹿児島へと向かいました。
さらに翌年、尚寧王と具志頭王子は島津家久によって江戸に連行されます。
尚寧王は敗戦国の君主としての屈辱に加え、道中に立ち寄った駿府で具志頭王子を失いますが、同地で謁見した家康の対応は意外にも優しく好意的で、国王兄弟を丁重にもてなしただけでなく、王子をねんごろに弔いました。
また、尚寧王を引見した秀忠はじめ江戸幕府側も、将軍家への使節を派遣する義務(※1)を琉球に課してはいるものの、1611年に王を琉球へと帰国させています。
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しかし、尚寧王にとって本当の試練と言うべきはこれからでした。
王と三司官(※2)は、『古くから琉球は島津家の属国である』と認めさせる起請文への署名を強いられ、貿易の権利を抑えられるなど、薩摩藩の支配下に置かれます。
これにより、琉球は明や清と言った中華王朝と日本の両方に服することとなり、朝貢貿易の実権は薩摩藩のものとなったのです。
尚寧王に実子は無く、王の死後に跡を継いだ尚豊王も王号を薩摩に奪われて琉球国司に格下げされる悲劇を味わい、尚寧王亡き後も琉球は忍従の歴史を歩むこととなってしまいます。
しかし、一方で尚寧王の降伏によって守られた那覇と首里城を中心として平和な時代を享受した琉球は大国の間で生き抜き、今に伝わる独自の文化を生み出したことも否めません。
帰国の2年後には奄美群島を薩摩に割譲するなど波乱にとんだ余生を送った尚寧王は、1620年10月14日に崩御、56年の生涯を閉じます。
その遺体は郷里の浦添にある陵墓・浦添ようどれに葬られますが、薩摩に攻め込まれたのを恥じて王家の墓に入るのを拒んだとする説も存在しますが、家系が違ったためと言う説が有力です。
奇しくも戦国から江戸期に移る日本、明朝末期の中国と言った大国がもたらした乱世を生き抜いた尚寧王の魂は、生まれ育った浦添の地で安らかに眠り続けています。
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(※1)将軍の代替わりに慶賀使、国王の代替わりに謝恩使を江戸に派遣
(※2)琉球の宰相的役職で三人制の官職
参考サイト
家康に会った琉球国王・尚寧 薩摩と戦った王の知られざる物語
(寄稿)太田
・大田先生のシリーズを見てみる
・首里城の解説 尚思紹王と尚巴志王【沖縄の世界遺産】
・薩摩藩による奄美大島侵攻と本仮屋(代官所)跡
・尚寧王の墓もある「浦添城」
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