橋本庄三郎(後藤庄三郎) 江戸時代の小判を最初に作った男

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橋本庄三郎(後藤庄三郎)

橋本庄三郎(はしもと-しょうざぶろう)は、のちに後藤庄三郎(ごとう-しょうざぶろう)と改名する、江戸時代初期における金細工の名門・後藤家の当主となります。
代々「後藤庄三郎」と称しますが、ここでは初代とされる後藤庄三郎光次をご紹介してみます。
後藤庄三郎光次は、もともと橋本庄三郎と言う名前にて1593年に徳川家康に謁見しています。
もとの出身は美濃の加納城主・長井利氏(長井藤左衛門利氏)の末裔とも言いますが、詳細は不明です。
いずれにせよ、庄三郎は京都における室町幕府以来の金細工・後藤家の職人として働いていました。
金細工の腕はピカイチで、後藤徳乗に才能を認められて、徳川家康から呼び出しを受けた際に、橋本庄三郎が代理人として江戸城に赴きました。


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すると、徳川家康より貨幣としての流通を前提とした一両の「小判」の鋳造ができないか?と要請を受けます。
そして、橋本庄三郎が試しに鋳造した小判が慶長小判として徳川家に正式採用されました。

このように慶長小判は、江戸時代の初期において徳川家康による天下統一を象徴するものとなり、江戸幕府による初期の貨幣として重要な位置を占めました。

時期は不明ですが、後藤徳乗と徳川家康から「後藤庄三郎光次」の名前を使う事と、五三桐紋(ごさんのきり)の使用を許されています。

なお、後藤庄三郎光次は旗本・志村伝衛門の世話を受け、また、江戸本町一丁目に後藤屋敷を建てると、屋敷内に小判の験極印を打つ後藤役所を設けました。
現在の日本銀行本店がある場所だとされます。

また大久保長安とも関わり、1601年には京都、1607年には駿府城下、また1621年には佐渡に後藤役所出張所を設けて、極印打ちを開始しました。
天領てある金山から産出された公儀の吹金を預って小判を鋳造すると言う作業を後藤庄三郎ら後藤家が引き受けたと言う事になります。
作業の手数料である分一金(ぶいちきん)は鋳造高1000両につき、手代10両、金座人10両2分、吹所棟梁4両と定められていました。
小判、一分判、二分判、二朱判、一朱判および五両判のような金貨には「光次」と言う花押の極印が打たれています。

橋本庄三郎(後藤庄三郎)の妻は、最初は後藤徳乗の娘でしたが、継室として2000石旗本・青山正長(青山善左衛門正長)の長女・大橋局を迎えています。
これら、妻・女性に関しての経緯はよくわかっていません。


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NHKの正月時代劇「家康、江戸を建てる」の後編では橋本庄三郎(後藤庄三郎)が取り上げられて、俳優の柄本佑さんが演じられます。
また、最初に橋本庄三郎の妻になる後藤徳乗の娘ですが、ドラマでは早紀と言う名前になっており、女優の広瀬アリスさんが役を担います。

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