大久保長安の解説 武田家臣から徳川家の老中に出世

大久保長安(おおくぼ-ながやす、ちょうあん)は、猿楽師・大蔵太夫十郎信安の次男として、戦国時代の1545年に奈良にて生まれた。
母は不詳。兄は大蔵新之丞。
なお、大久保長安の祖父は金春流であることから、先祖は秦氏と言う事になる。

父・兄と共に猿楽師として甲斐を訪れると、武田信玄に気に入られて、兄と共にお抱えの猿楽師となる。
猿楽(さるがく)と言うのは「能」の事で、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康も愛好している。


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やがて、官吏としての能力を認められた大蔵長安は、武田家の譜代家老・土屋昌続の与力にくわえられて、土屋長安と改名し、蔵前衆となった。
蔵前衆組頭・田辺太郎左衛門に師事し、治水対策などを習得。
また、黒川金山などの鉱山開発、税務や司法などにも従事し、有事の際には後方での兵站や補給を担当した。

その為、武田信玄の死後である1575年の長篠の戦いでは、兄・大蔵新之丞や土屋昌続は討死したが、土屋長安は出陣していなかった。
その後、武田勝頼から疎まれたため、三河に移っていたとする説もあるが、1582年、織田信長の甲斐侵攻により、武田家が滅亡すると、徳川家康の家臣に取り立てられた。

徳川家康が甲斐に逗留した際に、仮館を土屋長安(38歳)が建設することになり、その館が素晴らしかったことから、徳川家の家臣に加えられたとされたとする説と、旧武田家臣成瀬正一を通じて金山にも詳しい官僚であることを売り込んで、召し抱えられたともされる。

土屋長安は、仕官の際に対応した大久保忠隣の与力を命じられると、大久保忠隣は大久保姓を授け、大久保長安と改めた。

1582年6月、明智光秀本能寺の変によって織田信長が横死し、混乱した甲斐を手にれた徳川家康は、本多正信伊奈忠次に甲斐の再建を命じたが、実際に再建の所務を行ったのは、大久保長安とされている。
釜無川や笛吹川の堤防復旧、新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を復活することに成功した。

1590年、豊臣秀吉の小田原攻めのあと、徳川家康が関東移封となると、大久保長安は伊奈忠次、青山忠成、彦坂元正らと共に奉行に就任し、土地台帳の作成などを行なった。
これは徳川家康が家臣団に関東の所領を分配する際に、大変役に立ったと言われている。


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関東250万石のうち、100万石は徳川家康の直轄領となり、大久保長安は彦坂元正、青山忠次と共に関東代官頭として、直轄領の管理を任された。

また、1591年には武蔵・八王子で8000石となり、八王子千人同心と言う武田遺臣を中心とした下級武士組織も管轄した。
最初は、八王子城の落城直後に、武田旧臣257名を八王子に移住させ、浪人250名を募集した八王子五百人同心であったが、1599年に徳川家康の許可を取り、更に500名募集して八王子千人同心となっている。地名には越後、佐渡、伊勢などもあるため、全国各地から人が集まったようだ。
なお、八王子の所領は北条氏照の旧領をすべて与えられたする説もあるが、その場合には9万石と非常に大きな収入となるため、関ヶ原以前では考えにくい。
もし、1万石以上であったら「大名(藩)」として「城」も築いて、西からの防御に努める行動をとったはずであるが、八王子には陣屋しかないことからも、9万石はありえない。

八王子に入った大久保長安は、八王子宿に陣屋を置き、宿場の発展に努め、浅川の堤防工事も行うと、大久保石見守長安の名から「石見土手」と地元では呼ばれた。
また、八王子の街整備を行い、甲州街道(現在の国道20号の旧道)を直線にし、追分にて高尾山方面に35度左折している原型ができた。その他、桐生・青梅などの街づくりも行っている。
陣屋(大久保石見守長安陣屋跡)の西に八王子千人同心の屋敷を設けており、甲州街道における江戸城防備の要衝であることが考慮されている。

また、武田の旧臣が多い八王子千人同心の「心」のよりどころとして武田信玄の次男・武田信道や、娘・松姫なども保護している。

1600年、石田三成との関ヶ原の戦いでは、青山忠次と共に徳川秀忠勢の後方支援を務めたあと、徳川家の直轄となった佐渡金山や生野銀山などの管理も任され、1600年9月には大和代官、10月には石見銀山検分役、11月になると佐渡金山接収役、1601年春には甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官と目まぐるしく行動し、伊奈忠次らと東海道の整備を行い宿場を整え、徳川支配を確実なものとした。

佐渡金山

1603年2月12日、徳川家康が征夷大将軍となると、大久保長安は外様であるながら異例の従五位下石見守となり、徳川家康の6男・松平忠輝の附家老まで出世した。

そのあとも1603年7月には佐渡奉行、12月には所務奉行(勘定奉行)となり、徳川幕府の年寄(その後の老中)となり、関東の街道整備や一里塚の設置など行っており、一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という間尺も制定した。
1606年2月には伊豆奉行にも任じられ、湧水に苦しめられることが多かった縦堀から、排水が容易である横堀に変えて、産出量のアップに成功している。

1607年には、角倉了以を京から招いて、富士川の開発を行っている。


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大久保長安は正室である下間頼龍の娘と、継室とにる大久保忠為の娘などとの間に、7人子を設けており、石川康長池田輝政の娘と結婚させた。
また、松平忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚をまとめるなど、伊達政宗とも親交を築き、その権勢や諸大名にも繋がる人脈から「天下の総代官」と称された。
こうして、大久保忠隣と共に武断派として江戸幕府内では、文治派の本多正信と権勢を争ったが、岡本大八事件では岡元大八が本多正純の与力であったため、本多正純、土井利勝、酒井忠世らを追い込んだ。

しかし、晩年は鉱山の金銀採掘量が減った事もあり、美濃代官をはじめ代官職を次々と罷免されていくようになる。
そして、大久保長安は1613年4月25日、駿府屋敷にて中風(梅毒とも)にて病死した。享年69。

大久保長安の死後は、長年対立していた本多正信と本多正純が巻き返しを図り、1613年5月、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財したと言う理由で、徳川家康は大久保長安の7人の男子を全員処刑。一族は連座し、縁戚関係にあった諸大名も改易されるなどした。
さらに、7月9日に大久保長安の遺体を掘り起こして、駿府城近くの安倍川の川原にて、斬首とし晒し首にまでしている。(大久保長安事件)

鉱山奉行としては鉱山の経費・人件費は奉行が負担する代わりに、四分六分として、幕府側が四分、大久保長安が六分を収入としていたが、それを密かに虚偽の報告をしたと言う疑惑を持たれたのだ。
また、大久保長安は「金の棺に自分の遺体を入れて甲斐に送り、国中の僧侶を集めて葬儀を華麗に執り行うように」と遺言を残していたのを徳川家康が知るところとなる。
駿府町奉行の彦坂光正が調査を行い、収賄の罪で大久保長安の腹心である戸田藤左衛門、雨宮忠長、原孫次郎、山村良勝、山田藤右衛門らを逮捕し、葬儀は中止された。

小田原城主・大久保忠隣らも失脚したが、大久保長安の屋敷からは金銀が発見されたと言い、一説には70万両の蓄財があったとされる。
これらが不正蓄財であると言う証拠があったのかどうかまでは不明であるが、本多正信・正純父子の陰謀であるとか、不正を行う代官への見せしめとも、徳川恩顧の本多家への配慮とも言われている。

また、一説では、大久保長安は徳川家康より伊達政宗のほうが天下人にふさわしいと考えており、伊達政宗の幕府転覆計画に賛同していたり、松平忠輝を将軍にしようと言う噂や、屋敷の床下からスペインや明との手紙が出て、明の兵士を日本に攻め入らせて勝利したら、大久保長安を関白にするなどの計画があったとも言われているが、謀反の信憑性は低いとされる。


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処刑された者

長男・大久保藤十郎(享年37)正室は石川康長の娘。
次男・大久保藤二郎(享年36)正室は池田輝政の娘。
三男・青山成国(大久保権之助)正室は青山成重の娘。
四男・大久保運十郎(享年29)
五男・大久保藤五郎(享年27)
六男・大久保権六郎(享年23)
七男・大久保藤七郎(享年15)
腹心の戸田藤左衛門・山田藤右衛門
米津正勝(米津親勝)は堺奉行を解任されて阿波国へ配流となったあと翌年に処刑

処分された者

青山成重は7000石の召し上げと幕府年寄も解任となり、閉門処分
石川康長は改易されて豊後国佐伯に配流。弟の石川康勝、石川康次も後に改易
富田信高は改易されて奥州・岩城へ配流
高橋元種も改易されて陸奥棚倉藩主・立花宗茂預かり
佐野信吉が改易されて信濃・松本藩へ配流
松平忠輝の家老・花井吉成が自害(花井吉成の娘は、大久保権六郎の正室であった)
武田顕了(武田信道)と子・武田信正は伊豆大島に流罪


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大久保石見守長安陣屋跡

何名も無実の罪で静粛された訳ですが、大久保長安が築いた八王子の街並みは、太平洋戦争の八王子空襲で焼けたとはいえ、町割りなどは当時の区割りとなっており、今でもその面影を残しています。

ここでは、そんな八王子にある大久保石見守長安陣屋跡をご紹介致します。

大久保長安陣屋

1592年に、八王子小門陣屋が竣工されましたが、ここがその大久保長安の陣屋跡の近くとされます。
現在は、産千代稲荷神社の場所に大久保石見守長安陣屋跡の石碑があります。
陣屋があった場所はわかっていませんが、言い伝えによると、陣屋の鬼門の方角にこの産千代稲荷神社があったとされます。

大久保石見守長安陣屋跡の井戸

陣屋の設置時に掘られた井戸は2つあったそうですが、現存する400年前の井戸はこの1つだけだそうです。

大久保長安陣屋跡への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点となります。
駐車場はありませんが、鳥居の前の道は、ちょっと広いので車を止めれました。
記憶に間違えが無ければ、駐車禁止ではなかったように思います。(すみません。よく覚えていません。)
なお、見学所要時間は約5分~10分です。

下記の信松院は中央本線より南側ですが、そんなに遠くありませんので、セットでどうぞ。

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コメント

  • コメント ( 5 )

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  1. トニ

    先生、いつも記事楽しみにしています。

    また、質問させてください。
    ネットで武田家のマイナーな武将調べていたのですが初めて聞く蔵前衆の八田家重やその子息と思われる末木家清の名前が出てきました。

    八田御朱印屋敷というのと蔵前衆に大久保長安がいたというのはわかったのですが他の情報が乏しく、武田家の蔵前衆の役割や活躍。そして八田家重なる人物についてご教授お願い申し上げます。

  2. いつもご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
    石和の八田家ですよね。
    蔵前衆というのは、現代で言うと財務省や国税庁や税務署みたいな役どころです。
    ただし、税金は主に年貢ですので、年貢(米)の輸送(荷駄)も担当したようです。
    5月くらいまでに県立博物館行きがてら八田も寄ってみますので、詳しい事はちょっとお時間を賜りますと幸いです。
    このコメント欄にて改めてご報告させて頂きます。

  3. トニ

    早速の返信ありがとうございます。

    武力が目立つ武田家ですが内政面で活躍した武将注目していきたいと思います。

    楽しみに待っています。

  4. トニさま、大変お待たせ致しました。
    現地まで行って調べてみましたが、八田家重の詳細は不明ですが、分かった事は下記のページにまとめましたのでもしよろしければご覧頂けますと幸いです。
    https://senjp.com/gosyuin-isawa/
    の蔵前衆の役割は前述のとおり、年貢の徴収や輸送を管理すると言う事になります。
    以上、ご回答申し上げます。

  5. トニ

    いつも大変お世話になっております。

    記事は5日に拝読させて頂きました。

    返信遅くなり申し訳ありません。

    録画していたBSプレミアムでアンコール放送されている武田信玄を見ていたら固有名詞は出ていませんでしたが「蔵前衆」として一人俳優が出演しておりました。

    今の真田丸も楽しいですが昔の大河ドラマは合戦シーンや行軍シーンに画力があってワクワクさせられますね。

    また、質問させて頂くこともあると思いますので宜しくお願い申し上げます。