原胤歳・原胤従の解説~八王子千人同心の祖をわかりやすく2分でご紹介

八王子千人同心とは

原胤歳(原大隈守)(ハラ タネトシ)   原胤従 (ハラ タネヨリ)

原胤歳(原新七郎、原大隈守)(?~1584年)の出身である原氏は諸説あるが千葉兼胤の弟・とされ、原胤高(原四郎胤高)が始まりとされ、1400年頃に下総・小弓城主となり原姓を名乗ってからは、代々千葉家の家筆頭家老職を勤めた。
このように武田家に仕えた原氏は諸流あり、それぞれ先祖が異なるので、混同しないよう注意が必要だ。
原虎胤と家紋が同じであるが関係はよくわかっていない。いずれにせよ、千葉家を出奔し武田信虎の時代には武田家臣として目付役槍支配を任されていたようだ。

原胤歳は武田信虎追放後は武田晴信(のちの武田信玄)に仕え、山本勘助も討死した1561年の第4次、川中島の戦いで、上杉謙信が武田本陣に一騎討ちを挑んだとされる際に、武田信玄の近習で侍大将(足軽大将)だった原胤歳が機転を利かし、上杉謙信の馬の尻を槍で刺し、難を逃れたと言われている。


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原胤歳は1582年3月の武田滅亡後は子の原胤従(?~1599年)と共に徳川家康に仕え、1582年9月には他の小人頭衆らと共に駿府へ赴いて徳川家康に拝謁した。
そして、道筋奉行として駿河国境口~古関・精進・本栖の警備任されている。
その後、原胤従は、同心衆の支配を認められた。原胤従の同心衆には、成瀬氏や日下部氏がいる。
また、甲斐本領98貫文の書状を徳川重臣・井伊直政より賜っている。
原胤歳は1584年に亡くなったが、その後、原胤従は、徳川家康の下で活躍した。同じ1584年、小牧・長久手の戦いで、原胤従は活躍し恩賞を得ている。
一方、他の甲斐衆らと共に甲斐各地の代官として甲斐の治安を守り、1589年には1712俵の知行となった。
その後、小田原北条氏が豊臣秀吉に屈して、1590年に徳川家康が関東に国替えとなると、甲斐は浅野長政が治めるところとなり、原胤従ら旧武田家臣の甲斐衆10人は八王子に移った。


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北条氏滅亡の際、八王子城では悲劇が起こった為、豊臣勢に恨みを持つ八王子城の北条旧臣が多く、徳川重臣・本多正信の管理の下、原胤従ら甲斐衆10人が元八王子に入り、翌年には千人頭10家に各50人の同心を充てられ、合計500人の兵力となり、八王子の治安を回復させた。
その為、原胤従は八王子原氏の祖とされている。

下記は、江戸東京たてもの園にある「八王子千人同心組頭屋敷」。

八王子千人同心組頭屋敷

原胤従の子・原胤虎(?~1627年)の代、関が原の戦いに備えて、更に各50人の浪人(計500名)が追加され、八王子五百人同心は、八王子千人同心となった。
八王子衆は徳川秀忠軍に加わり、関が原を目指すが、真田昌幸の抵抗にあう事になる。
その後、原胤虎らは大阪冬の陣、夏の陣にも出陣し、夏の陣では軍功を上げ、陣中、徳川家康に召され、20両の恩賞を得ている。
原胤虎の子・原正胤は1631年3月には武藏国多摩郡車返・上石原村、都筑郡大棚村、上総国望陀郡永地・岩井村、周准郡北子安村、市原郡山小川村で高342石余地を領した。

また、江戸時代には子孫の原氏が、相模原市橋本の名主として新田開発なども行い、現在にも続いている。

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