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甲斐の虎・武田信玄の父である武田信虎(たけだ-のぶとら)。
実の息子である武田信玄によって国を追放されたことは、戦国愛好家ならば誰もが知るところだが、その生涯と人物像はどのようなものだったのだろうか?
信虎の生涯
武田信虎は、代々甲斐国の守護をつとめる武田家の17代当主・武田信縄の嫡男として生を受けた。
生年は1494年あるいは1498年と言われている。
当時、関東での上杉禅秀の乱より続く混乱に、甲斐も巻き込まれており、武田家は上杉禅秀に加担したことで一度滅亡の憂き目に逢っていた。
のち再び守護の座に返り咲いた武田家だったが、一族での家督問題が根深く尾を引いており、武田信虎も当主の座につくなり叔父との争いに身を投じることとなった。
15歳ながらも天才的な戦術を駆使すると、叔父・武田信恵一派の一掃に成功し、甲斐国内での影響力を強めた武田信虎は、26歳のとき国府を甲府へと移す。
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『高白斎記』によれば、家臣を躑躅ヶ崎館のある城下へ集住させたと伝わっている。
1521年に駿河・今川氏輝の家臣・福島正成が15000にて侵攻してくると、僅か2000にて撃退しただけでなく、敵の大将・福島正成を戦死に追い込んだ。
甲斐の国人衆がこぞって静観を貫くなか劣勢を見事に跳ね除け、28歳の武田信虎はついに甲斐一国を手中に収めたのである。
この年、のちに父である武田信虎を追放することになる嫡子・武田信玄(武田晴信)が正室・大井の方との間に生まれている。
1536年の今川氏輝の死去を機に長年敵対を続けてきた今川氏とも和睦を結び、今川家にて家督騒動が起きると承芳(のちの今川義元)を支持。
家督を継承した今川義元に長女・定恵院を嫁がせ、また今川義元のあっせんにより武田信玄には公家・三条氏の娘(三条の方)を娶らせた。
しかし、順風満帆かのように思えた武田信虎の歩みは、度重なる軍事行動と国内の疲弊を贄にしているところも大きく、1541年、とうとう武田信玄や板垣信方により甲斐国を追放されるという事態に陥る。
48歳の時に追放された武田信虎は、娘婿のいる駿河にて隠居料(武田家より毎年1億円相当)を与えられながら暮らし、時折、京へ上るなど各界の要人と交流を深めながら、武田勝頼の時代である1574年、三男・武田信廉の居城である高遠城にて亡くなった。享年81歳。
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作られた信虎像
実の息子から追放されるという歴史的大事件の主役であることから、武田信虎はしばしば「暴君」として語られる。
武田信玄が、父・信虎を追放した際、領民たちは喜んだとすら言われているほどだ。
武田家の事跡・逸話も多く載る武田流軍学の書『甲陽軍鑑』にも、粗暴・傲慢であり諌める重臣を手打ちにするといった逸話が残る。
しかし、同時代の一次史料や土地の伝承などに、武田信虎の悪行を克明に示したものは存在しておらず、これらの悪評は『甲陽軍鑑』をはじめとする「信虎追放を正当化する」目的で流布されていった可能性が指摘されている。
武田信玄の時代に比べると、史料も少なく研究も途上であるため、残念ながら人柄の真相は闇の中である。
近隣大名との逸話
そんな中でも、信虎が他の大名とどういった付き合いをしていたかが分かる逸話が残っているので、ご紹介しよう。
当時、越後を実質的に支配していた上杉謙信の父・長尾為景から、相模の北条氏綱へ鷹が2羽送られた時のことである。
鷹を預かった運び人が越後から甲斐を通り相模へ向かったのだが、甲斐国主である武田信虎は挨拶をした彼らに「甲斐へ鷹を一羽置いていけ」と足止めをした。
おかげで運び人は相模に帰るのが遅くなってしまい、しかも相模へ連れ帰った方の鷹が若いとのちにわかると、武田信虎は「若い方と交換してほしい」と要求したのである。
応じはしたものの、困ってしまった北条氏綱は、長尾為景に対して手紙で愚痴をこぼし、それが現代まで残った…というお話である。
武田信虎が「為景が二羽を北条氏に送ったということは、一羽を武田に届けろという意味だろう」と理屈をつけて要求した可能性があると、研究家の山田邦明氏は指摘している。
『甲陽軍鑑』由来の「暴君信虎像」を安易に信じることはできないが、この逸話を見る限り、当たっている部分も無きにしも非ず、と言えるのではないだろうか。
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武田信虎の墓「大泉寺」
武田信虎は1574年(天正2年)3月5日に信濃の高遠城にて死去しました
その後、武田信虎が1519年に天桂禅長を招いて創建していた大泉寺にて葬儀が行われました。
佐久・竜雲寺の大禅師北高全祝が武田信虎の葬儀を執り仕切っています。
下記は大泉寺の総門です。
この総門は1710年に、甲府城主・柳沢吉保が建立した菩提寺の永慶寺にあったと言います。
しかし、1724年に柳沢氏が大和・郡山城に転封となったため、永慶寺も奈良に移転することになり、総門がここに移ったそうです。
境内もなかなか広い大泉寺ですが、夏場は蚊の対策があると良いでしょう。
武田信虎の遺骸もここに埋葬されたと言います。
現在、大泉寺の本堂から左手奥に進むと、武田信虎の霊廟があります。
その霊廟の敷地中に入って丁重にお参りします。
霊廟の左奥の階段を登って、霊廟の真後ろに「武田信虎の墓」があります。
墓は3つ並んでおり、真ん中が武田信虎で、両端は武田信玄の墓と武田勝頼の墓だそうです。
甲府・大泉寺へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が参拝者用の駐車スペースになっていました。
躑躅ヶ崎館(武田神社)もそんなに遠くないですので、セットでどうぞ。
・武田信玄に関してはこちら
・飯富虎昌とは~戦国時代の武田家2代ら使えるも義信事件で切腹した宿老
・寿桂尼~今川家の政務を行った駿河の女大名
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寄稿共通カウントPV (寄稿)校倉来夏
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