質問回答編とは?
当方関連サイトにお寄せ頂きましたご質問などに対して、相模原の歴史研究会所属会員が回答するものです。古い歴史にはわからないことが多いですので、もちろん歴史認識の違いや間違えなどがあるかも知れませんので、あくまでもご参考になさって頂ければ幸いです。
ご質問内容 (一部略)
常陸小田氏家臣(小田氏の軍属)として「多気氏」がいますが、ご存知のこと教えて下さい。
多気山城に詰めていたのでしょうか?
回答内容
多気氏は、常陸大掾氏(だいじょうし)一族(分派)であることはご存知だと存じます。大掾氏は多くの分家を出しています。常陸大掾氏の先祖は、平高望とされています。
平高望は、桓武天皇の血を引くもの(孫?)とされ、いわゆる皇族でしたが、889年に宇多天皇の命により臣籍降下。平氏を名乗ることになります。その時の赴任先が常陸国であり、地元豪族と関係も深めて、のちに多くの分家を出して、関東における平氏の基となりました。
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桓武天皇- | 平高望- 839年?-911年? |
┬平国香 │?年-935年 |
┬平貞盛 │?年-?年 |
-伊勢平氏(鎌倉時代の執権北条氏など) | |||
├平良兼 │?年-939年 |
└平繁盛 ?年-?年 |
┬平維茂 │?年-?年 |
-(省略) | ||||
└平良将 | -平将門 903年?-940年 |
├多気維幹 │(平維幹) │平貞盛の養子に |
┬多気為賢 │ │ |
||||
└平兼忠 | └多気為幹 | -多気繁幹 | -この系統が続く |
水守(現在のつくば市水守)に住む平国香は935年に甥の平将門と戦いますが、常陸国石田館(現在の茨城県筑西市)で敗死しました。その子である平貞盛は当時、京に登って勤務していましたが、急ぎ帰郷し平将門と和睦を図る為関東に帰郷します。しかし、亡くなった平国香の弟・平良兼ら平氏一族と平将門は更に敵対することになり、平良兼は937年9月に筑波山にも逃げ込みます。
朝廷工作を行いますが、平良兼は失意のうちにやがて病没しました。平貞盛は関東で頼る人物を失い、938年京を目指しますが、信濃国千曲川で平将門の追撃にあい、平貞盛側の多くが討たれ、平貞盛は身ひとつで京に逃れたと言います。
やがて平将門は朝廷軍を敵として戦うことになり、939年平将門の乱(天慶の乱)が勃発します。平将門の勢いに恐れをなした諸国の受領を筆頭とする国司らは皆逃げ出し、武蔵国、相模国などの国々も従え、 平将門は岩井(茨城県坂東市)に政庁を置き、関東全域を独立国として形勢しました。
驚いた朝廷は直ちに討伐軍を送りますが、討伐軍が到着する前に、平貞盛は藤原秀郷と協力して940年平将門を討ちます。(平将門享年38歳)
その功により平貞盛が常陸国を授かると、平貞盛は甥の維幹を養子として、平維幹に常陸国の全領を与えました。平維幹は常陸大掾に任じられ、水守から990年頃?多気に移ると、多気太郎、多気大夫とも称しました。大掾の職は世襲のようになり、職名は転じて家名となり、以後大掾氏と称し、常陸平氏の本家となります。
このように平安時代、常陸国全土を支配する強大な勢力を多気氏(大掾氏・多気大掾氏)が誇りました。
多気大掾氏は、多気山城(つくば市北条)を居城と、筑波山麓南西に一大勢力を有していたと考えられます。多気山城は多気城山城とも呼ば、「吾妻鏡」に出てくる「多気の山城」というのは、この多気山城と考えられます。
多気繁幹の子より、多気氏、吉田氏、石毛氏、小栗氏と別れ、更に真壁氏、下妻氏、行方氏、東条氏、馬場氏、鹿島氏、麻生氏、石河氏など、多数の分家に分かれていきます。
多気大掾氏=常陸大掾職の惣領家でしたが、6代大掾義幹(多気義幹)の時の事。
鎌倉幕府創設に尽力した有力御家人の1人、八田和家(のちの小田氏)はその功により源頼朝より常陸守護職を授かります。しかし、常陸守護職と言っても八田和家の領地は僅かです。勢力を強めようと考えたのでしょう。
1193年、源頼朝が富士野で狩りをしたとき、曽我十郎祐成、同五郎時房の仇討事件で世の中が騒然としている隙に乗じ、常陸守護職の八田和家は多気城の多気氏を滅ぼそうと企て、八田知家が大掾義幹を討とうとしていると言いふらして、大掾義幹に多気山城の防備を固めさせました。
その後、八田知家は大掾義幹に源頼朝への見舞のための同道を遅らせ、大掾義幹は源頼朝に反逆を企てていると進言し、驚いた源頼朝は八田知家と大掾義幹の2人を呼びます。大掾義幹は城の防備を固めた事実と兵を集めたことを責められ、常陸大掾職と筑波・北・南三郡の所領を没収され謹慎。大掾義幹は岡部泰網(岡部権守泰網)に預けられ、多気大掾氏(多気氏)は没落します。
なお、以降、戦国時代まで多気山城の動向は不明です。
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ただし、多気氏の子孫は残ります。
常陸大掾職は同じ支族の吉田資幹が任官し、以後大掾氏の惣領は吉田氏とります。その子孫は水戸城を本拠地として栄え、馬場氏とも呼ばれました。
鎌倉幕府滅亡の際、大掾盛幹は一時、北条執権家や北条時行の乱に荷担したため、室町幕府を開く足利尊氏に対して謝罪をする為、手元に養育していた多気種幹の遺子竜太を人質として足利氏へ送ります。
こうして、多気氏は常陸を離れることになりますが、1349年足利尊氏の四男・足利基氏が鎌倉へ派遣されたころ、竜太は相模国高座郡村岡郷に所領を与えられ、同郡内の芹沢に居住して「芹沢氏」と名乗ります。
そして成人元服した竜太は芹沢幹文と改めて相模の武士として自立し、その子孫は鎌倉御所の配下として活躍することになりました。
また、戦国時代に小田氏に仕えて重臣に多気氏がおります。常陸大掾氏と関係あることは推測できますが、どの分派なのかなどは不明です。
さて、多気山城の話に戻ります。
多気山城と言う名の城は、多気氏が築いたとされるつくば市北条にある山城と、宇都宮氏が築いたとされる宇都宮市の山城と2つ認められ、地元ではいずれも城山と呼ばれています。調べる際には注意が必要です。
宇都宮の城は一般的に多気城と呼ばれ、筑波の城は多気山城と呼ばれることが多いです。
ここでは多気氏に関連する話ですので、筑波の多気山城(城山城)について記載致します。
多気山城は、標高129m、比高100mの独立峰に築かれた城です。
戦国時代に盛んになった山城と比較すると、街から山頂への移動も便利で行政地として優れています。
ただし、現在認められる遺構は規模が大きく、とても鎌倉時代前に築かれたとは考えにくいです。
その為、現在の規模となったのは、古城であったものを戦国時代、小田氏が佐竹氏に敗れ滅亡した際に、佐竹氏側がこの地方の守備の為多気山城を改造した。または、小田氏が佐竹勢と散々争いましたので、小田城に変わる城として使うため、改造していたとも考えられます。
いずれにせよ、茨城県にはこのような山城は珍しく、茨城県有数の規模を誇るのは間違えありません。
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多気山城がある北条の地には、地元で多気太郎様と呼ばれる、大掾義幹の墓がある。
また、その墓の近くには、日向廃寺跡と言い、発掘調査により、宇治の平等院鳳凰堂と同じ建築と考えられる、中央堂を中心に東西に回廊をもつ「阿弥陀堂式寺院」と推定される礎石群が見つかっている。1100年台頃の建築のようだ。
水守城は、桜川の対岸、つくば市の田水山小学校付近にあった。北条からは車で10分ほどの距離、田中荘の近くである。
水守の街中は今でも古い家屋が並ぶ。
・筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城は防御は弱かった?
・多気山城(多気城)と多気義幹~筑波の北条にある山城
・八田知家をわかりやすく解説「鎌倉殿の13人」筑波を支配した小田氏の祖
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米良文書の92番、小田一族(実質は宍戸一族)の願文写に「駿河惣領末兼深志伊賀守」とある人物の素性について何らかの情報、見解をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご教示下さい。